「床屋さんはどこも赤青白の3色の回転灯が店の前にあるけれど、どうしてかな〜?」
子育てしたことのある人なら、だれもが小さな子供の質問にどきまぎさせられた経験を持っているのではないだろうか。
北極と南極の氷、どう違う?(03/15)
植物にも体温はあるの?(03/29)
クモの巣はどう作る?(04/05)
好奇心の旺盛な子供に、このような質問を次々とされたらどうします?
私は新聞などちょっと面白いと思った記事を見つけるとスクラップを残してあるのですが、冒頭の質問は、2011(平成23)年の今日・6月25日付朝日新聞朝刊 be 連載の「ののちゃんのDO科学」欄に掲載されていたののちゃんの疑問である。以下の質問も同様。以下参照。
朝日新聞デジタル:ののちゃんのDO科学一覧
さて、先に書いた床屋さんの赤・白・青の三色の縞模様がクルクルと回転する細長い円柱形の看板はサインポール(signpole)と呼び、今では、理容店を 示すシンボルともなっている。
営業中であることを表すため回しているが、この三色の「サインポール」は、世界共通のマークだという。
サインポールの由来には諸説あるようで、Wikipediaには4種類の説を上げている(※1参照)が、「ののちゃんのDO科学」ではののちゃんの質問に対して、その中の一説を藤原先生が、確からしいところの話として以下のように説明していた。
中世のヨーロッパでは、歯を直したり傷を手当てしたりする人たちが理髪外科医と呼ばれ、髪を整える仕事もしていた。
その治療法の中に「瀉血(しゃけつ)」というのがあり、体の悪い部分に、悪い血が集まるから、病気を治すためにその血を体外に出そうとした。当時はこのような方法が盛んだったようで、患者に棒を握らせて、血が棒を伝わって受け皿へ落ちるようにしていた。
だから血が目立たないように棒は赤く塗られていたらしい。治療後に巻く白い包帯が棒に巻きついたことがあり、そんな様子から赤と白が理髪外科医の看板に使われるようになったという。
「では、青は何なの?」というののちゃんの説明に、
いろいろな看板が使われるうちに青も加わったみたい。その後、専門性が高まって外科と理髪が分けられるようになり、イギリスで、1745年に仕事別に組合を作った時、外科は赤白、理髪は赤青白を使うようになったんだって。理髪店の団体の人に聞いてもこの説が有力だって教えてくれた。
お医者さんがやっていたことと関係づけて、赤は、動脈、青は静脈、白は包帯を表すという説明も聞く。ただ動脈を赤、静脈を青で表すのは、1628年の発表で用いられたのが最初らしい。
しかし、赤青白を使った看板はその前からあったので、この説は後から広がっただけと言えそうだ。この説は
日本心臓財団のHP※2:「赤いハートは聖杯から」に、もう少し詳しく書かれているのでそこを読まれるとよい。
上掲の画像は、Wikipediaに掲載の「中世ヨーロッパの瀉血」の様子を描いた画像。これを見ると、瀉血をするのに棒をもっているようには見えないが・・・。
それでは、「サインポール」は、何時日本でも使われるようになったのか?
日本には、髪結いという仕事が江戸時代にもあったが 、西洋風の理髪店は1869(明治2)年に横浜が開かれたのが最初。その2年後、赤青白に塗り分けた看板の記録が残っているらしいので、西洋の理髪技術とともに入ってきたようだ。このことは この後でまた書くことにしよう。
「美容院」では赤青白の「サインポール」を使っていないが、「美容院」が法律で区別されたのは第二次世界大戦の後のことであり、その時に、赤青白の「サインポール」は、理髪店が継いだらしい。
よく見るといろんなタイプの「サインポール」があり、型の違いだけでなく、緑やオレンジを使った色変わりタイプ、また、店頭に立てているような大きいものは、存在感はあるが、出し入れが大変と、最近は壁に取り付ける小型のものに人気があるようだ。
では、とりあえず「サインポール」の話はこれまでにして、次は床屋の話に移ろう。
現在の理容店(理髪店)は、一般的に散髪屋、床屋という呼び名が用いられ、「理容室」は男性用であり、「美容室」は女性用といったイメージを持つ人が多いかもしれないが、美容と理容の意味は似ているが、これは男女の区別ではなく、法律で次の通り、業務内容が明確に区別されている。
○理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第1項)
○美容:パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第1項)
そもそも、理容の場合、仕事のなりたちは、文明開花の散髪脱刀令(明治4年8月9日太政官第399)が発布されたあたりに遡る。しかし、この法令は一般に「断髪令」という名称で知られているが、実際は、髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかった。
この断髪令が布告される3ヵ月前に、
半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする
という俗謡が新聞に掲載され、流行したが、これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのだそうだ(※3:「全国理容生活衛生同業組合連合会」の理容の歴史のここ参照)。
男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れた。これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5 年4月5日(1872年5月11日)に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至り、ついには、明治6年(1873年2 月13日には「婦人断髪禁止令」が出されている。
そののち「婦人束髪会」(著者:豊原国周。※4参照)は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」(大坂新聞・明治6年1月20付け。※3のここ参照)と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れた(※3のここ参照)。以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになるが、 基本的に女性は明治時代になっても髪を結うのが普通であって、「カットでそろえる」という概念はなかったようだ。
そのため、最初は理容美容が一緒だった法律「理容師法」が昭和23年(1948年)1月につくられ、徐々に成熟してきたことによって、昭和32年(1957年)に、単独の法律「理容師法」「美容師法」に分かれたのだという。※3また理美容を参照)。
現在の理容店は、一般的に床屋という呼び名を用いるが、これは江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称し、髪結いといったが、男の髪を結ったり、ひげやさかやき(月代)をそったりするのを職業とした店を「髪結い床」と呼んだことに由来する。
床屋発祥の地は山口県下関市といわれており、髪結職の業祖に関しては江戸時代中期につくられたといわれる「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられているそうで、同書によれば、藤原鎌足の子孫である藤原晴基(または基晴)の三男ともいわれる藤原采女亮政之が新羅人から技術を学び髪結所を開業したのが始まりとされているそうだ。
店の中に床の間を設け亀山天皇と藤原家を奉る祭壇があり、人々は“床の間のある店”から転じて“床屋”という屋号で呼ぶようになったという。采女之亮はその後鎌倉に移り、幕府からも重用されるほどになったといわれている。
そして、日本における理美容業の祖として、昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとしていたようだ(※3のここ参照)。
髪を結う場合、自分で髪を結う場合と人に結ってもらう場合がある。
雑用をこなす召使がいる武士と違い、庶民は自分で、月代(さかやき)を剃ることができず髪結いに頼んでいた(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)。
江戸時代になって髪結い職というのが、社会的要求から男子の場合は公に許された鑑札制となり、慶長末(17世紀初頭)の高札には「一銭剃り」とか「一文剃り」とあるという(NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第六巻服飾編)。
男性の髪結いは月代が広まった室町後期位から江戸初期に永楽銭一文程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」が起源だといわれている。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。
床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが万治年間(17世紀中頃)、江戸市中に髪結床の株を設け、1町内に1か所、八百八町に1件ずつとして八百八株と定めた。床屋の数はこれ以後増え続け、幕末には2400余り開業されているという。
1軒の店舗を構えたりせず江戸初期は江戸も京阪も大きな橋の袂など往来の多い所へ床を置き、葦簀(よしず)や幕の類を巡らして、通行人の求めに応じて月代を剃ったり髪を結った。
江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。
江戸や大阪・京都では、髪結い職人の数を限定して営業保障をする一方、髪結いに対して交役を課し、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所や会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、また髪結いの道具一式を納めた道具箱を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた(大坂では床髪結は牢番役を務めその中核には一人の組頭がいたという)。
当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあったようだ。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取ったという。決められた料金のほかに、「あごつき」といって得意先に食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。
上掲の画像は「(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた江戸時代以降の屏風絵『洛中洛外図屏風』(舟木本、屏風六曲一双)東京国立博物館蔵に、描かれている「床屋と番人」である。原画は以下でみられる。向かって左から2曲目橋の袂に描かれている。
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 洛中洛外図
上掲の画像は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』に描かれている「髪結い床」の図である。
この図に出てくる床屋は、長屋の一角に店を構え、客は上り框の板敷に座り、月代や顔をそり、髷を結いなおしてもらっている。親方のほかに下職も何人かいた。湯屋の二階(※5参照)と同様、順番待ちの客にとっては良い社交場でもあった。
上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏』国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。
電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー
上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。(※ここに掲載の画像等はいずれも私の蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編、第六巻服飾編のものを使用した)。
江戸時代までの月代を剃り、髷を結う床屋ではなく、現代的な西洋理髪をする床屋を、明治の初めころは西洋床と呼んでいた。その最初の西洋床は、外国との通商条約(日米修好通商条約を参照)が締結されたことにより開港された港町から始まるが、特に江戸に近い横浜で始まった。
その祖は南京町で開業した小倉虎吉や松本定吉という人物等だとされている。
そして、一般の人たちが、散切り(ざんぎり)頭になったのは、散髪脱刀令が出された後の1873(明治6年)3月明治天皇が西洋風に断髪したことで、官吏を中心にこれに従う者が増え、一般の国民も同様にする者が増えていったが、それでも保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。そして、1887(明治20)年頃には、殆どの人が散切り頭になったといわれている。
これで床屋とサインポールの話は終わるが、「なぜ?」「なぜ?」を連発するののちゃん・・・いや、多くの小さな子供の質問に辟易している人も多いのではないかと思うが、大変なことではあるが、その質問にちゃんと答えてやるのが一番の教育なのだろう。
古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れている」と言っており、弟子のプラトン等への教育方法としては“相手に問いかけて、答えを相手の言葉で相手の中から引き出す”=“問答法”が有名。
ソクラテスは「 私は自分が何も知らないということを知っている 」と主張して いるのだからソクラテス自身は何も教えはしない。
ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをする。問われた相手の回答に納得できなければ更に問いを出す。
これを繰り返し最後には、相手は自分の納得できる回答をする。この答は 相手の中で出来たもの。だからソクラテスは教えていないことになるのだ。
ソクラテスの場合は「これはなにか?」と問答しながら、結局最後には相手に自らその真実を気づかせている。
これとは逆に、仕事でも勉強でも疑問があった時には、 知らないことは知ったふりをせずに人に聞くことが大切である。
ところが最近の若者は、聞くのが恥ずかしい。まあよくわからないけどいいやと解決しないことが多くあるようだ。
そういうことを積み重ねていると、後々痛い目を見ることになる。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』・・・という諺もある。
私も現役時代感じたことであるが、学生時代とは異なり、一般社会では仕事のできる人と頭の良し悪し(この場合、一流の大学を出たとか、なんでも良く知っているとか)はあまり関係ない。
仕事のできる人とできない人は「、知らないことを知らないとわきまえているか否か」で決まる。
仕事でも勉強でもできる人ほど、判らないことは判らないと疑問点は質問していることが多い。つまり、知ったかぶりはしていない。
彼らは、聞くことを恥ずかしいなどと思わず、わからないままにしておいて、成果が出ないことを恥ずかしいと思っている人達である。
若いうちは特に誰にでもなんでも聞けるという特権を持っている。年を重ねるほどに聞きづらいことも、若いうちなら許される。そしてチャレンジし、失敗することも・・・・。
生涯に約1300もの発明をしたアメリカの発明家・起業家であるトーマス・エジソンは、発明王また、エジソンの研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで「メンロパークの魔術師」とも呼ばれるが、彼の功績は、伝記などに記されている“発明”ではなく“発明”という行為を大勢の人間に認知させたことが何よりも重要なことであったと言われている。
それまでの発明と言うものは「立派な学校を出た一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があった。しかしエジソンは幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学し、新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られいる。
そんな努力の積み重ねで身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていった。そして発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと多くの人たちに夢を与えた人であった。
数多くの発明の中では「電球を発明した」人物としても有名だが、実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られ、エジソンの独創ではない。彼は、電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化をして普及させ、その電気の流れに乗せてさまざまな電化製品を開発・製造・販売した偉大なイノベーターであったのである(※7参照)。
そんなエジソンの名言・格言(※8参照)には、
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。」
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」
・・・といったように失敗を恐れないチャレンジする姿勢こそが、成功の条件だと言っている。ただ、当然、判らないことをわからないままにしていたわけではないだろう。自分で知らべ、判らないことは当然誰にでも相談しながら実験した事だろうと私は思っている。
無論、人にものを聞くのに、全く考えずに、質問していてはいけないが、独りで考えても解決しないことは、質問すべきだろう。
何も考えずに質問しても実力はつかない。自分なりに論理を組み立て、ここまではわかるが、この部分がわからない。この部分について、自分はこう思うのだが、なぜこうなのか。といったような自分なりの見解を持って、質問をしなければいけないだろう・・・。
経営の神様と言われる松下幸之助も質問することの大切さを説いている。「成功した秘訣は何か」と聞かれた時に彼は「わからないことがあったら人に尋ねることだ」と答えているのである(※9参照)。
ただ、今日の「床屋さんとサインポール」の質問をしたののちゃんのような小さな子供は好奇心の塊のようなもの。子どもにとってはなにごとも初体験で、自分が知らないことはストレートに素直に聞いてくる。それに対して、「そんなことはもう少し大きくなればわかる・・」などと拒否せずに、なんでも真面目に答えてやることが大切だろう。
そして、ソクラテスじゃないけれど、「それでこれはどうなると思う?」と新たな質問を投げかけて考えさせたり、一緒に百科事典などで調べてみて一緒に勉強してやることがその子の成長へのより動機づけとなるのではないか。
それやこれやで、今日は、「ののちゃんのDO科学」過去記事(※9)などについて、一緒に子供と話しをしてみても面白いかもしれないね。
参考:
※1:サインポール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
※2:日本心臓財団HP−赤いハートは聖杯から
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/14.html
※3:全国理容生活衛生同業組合連合会
http://www.riyo.or.jp/
※4: 国立国会図書館デジタル化資料 - 婦人束髪会
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305531
※5:世風呂:江戸の湯屋・ページ5
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya5.html
※6:自己成長のチャンスは質問力にあった!経営の神様・松下幸之助も認めるその重要性 ...
http://u-note.me/note/47485774
※7:電力事業と計測の歴史 (その1) - 日本電気技術者協会
http://www.jeea.or.jp/course/contents/02102/
※8:トーマス・エジソンの名言・格言集。失敗は勉強である!
http://iyashitour.com/archives/20390
※9:asahi.com:過去記事一覧 - ののちゃんのDO科学 - NIE
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/index2.html
子育てしたことのある人なら、だれもが小さな子供の質問にどきまぎさせられた経験を持っているのではないだろうか。
北極と南極の氷、どう違う?(03/15)
植物にも体温はあるの?(03/29)
クモの巣はどう作る?(04/05)
好奇心の旺盛な子供に、このような質問を次々とされたらどうします?
私は新聞などちょっと面白いと思った記事を見つけるとスクラップを残してあるのですが、冒頭の質問は、2011(平成23)年の今日・6月25日付朝日新聞朝刊 be 連載の「ののちゃんのDO科学」欄に掲載されていたののちゃんの疑問である。以下の質問も同様。以下参照。
朝日新聞デジタル:ののちゃんのDO科学一覧
さて、先に書いた床屋さんの赤・白・青の三色の縞模様がクルクルと回転する細長い円柱形の看板はサインポール(signpole)と呼び、今では、理容店を 示すシンボルともなっている。
営業中であることを表すため回しているが、この三色の「サインポール」は、世界共通のマークだという。
サインポールの由来には諸説あるようで、Wikipediaには4種類の説を上げている(※1参照)が、「ののちゃんのDO科学」ではののちゃんの質問に対して、その中の一説を藤原先生が、確からしいところの話として以下のように説明していた。
中世のヨーロッパでは、歯を直したり傷を手当てしたりする人たちが理髪外科医と呼ばれ、髪を整える仕事もしていた。
その治療法の中に「瀉血(しゃけつ)」というのがあり、体の悪い部分に、悪い血が集まるから、病気を治すためにその血を体外に出そうとした。当時はこのような方法が盛んだったようで、患者に棒を握らせて、血が棒を伝わって受け皿へ落ちるようにしていた。
だから血が目立たないように棒は赤く塗られていたらしい。治療後に巻く白い包帯が棒に巻きついたことがあり、そんな様子から赤と白が理髪外科医の看板に使われるようになったという。
「では、青は何なの?」というののちゃんの説明に、
いろいろな看板が使われるうちに青も加わったみたい。その後、専門性が高まって外科と理髪が分けられるようになり、イギリスで、1745年に仕事別に組合を作った時、外科は赤白、理髪は赤青白を使うようになったんだって。理髪店の団体の人に聞いてもこの説が有力だって教えてくれた。
お医者さんがやっていたことと関係づけて、赤は、動脈、青は静脈、白は包帯を表すという説明も聞く。ただ動脈を赤、静脈を青で表すのは、1628年の発表で用いられたのが最初らしい。
しかし、赤青白を使った看板はその前からあったので、この説は後から広がっただけと言えそうだ。この説は
日本心臓財団のHP※2:「赤いハートは聖杯から」に、もう少し詳しく書かれているのでそこを読まれるとよい。
上掲の画像は、Wikipediaに掲載の「中世ヨーロッパの瀉血」の様子を描いた画像。これを見ると、瀉血をするのに棒をもっているようには見えないが・・・。
それでは、「サインポール」は、何時日本でも使われるようになったのか?
日本には、髪結いという仕事が江戸時代にもあったが 、西洋風の理髪店は1869(明治2)年に横浜が開かれたのが最初。その2年後、赤青白に塗り分けた看板の記録が残っているらしいので、西洋の理髪技術とともに入ってきたようだ。このことは この後でまた書くことにしよう。
「美容院」では赤青白の「サインポール」を使っていないが、「美容院」が法律で区別されたのは第二次世界大戦の後のことであり、その時に、赤青白の「サインポール」は、理髪店が継いだらしい。
よく見るといろんなタイプの「サインポール」があり、型の違いだけでなく、緑やオレンジを使った色変わりタイプ、また、店頭に立てているような大きいものは、存在感はあるが、出し入れが大変と、最近は壁に取り付ける小型のものに人気があるようだ。
では、とりあえず「サインポール」の話はこれまでにして、次は床屋の話に移ろう。
現在の理容店(理髪店)は、一般的に散髪屋、床屋という呼び名が用いられ、「理容室」は男性用であり、「美容室」は女性用といったイメージを持つ人が多いかもしれないが、美容と理容の意味は似ているが、これは男女の区別ではなく、法律で次の通り、業務内容が明確に区別されている。
○理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第1項)
○美容:パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第1項)
そもそも、理容の場合、仕事のなりたちは、文明開花の散髪脱刀令(明治4年8月9日太政官第399)が発布されたあたりに遡る。しかし、この法令は一般に「断髪令」という名称で知られているが、実際は、髪型を自由にして構わないという布告であり、髷を禁止して散髪を強制する布告ではなかった。
この断髪令が布告される3ヵ月前に、
半髪頭をたゝいてみれば因循姑息の声がする
惣髪頭をたゝいてみれば王政復古の音がする
ザンギリ(斬切)頭をたゝいてみれば文明開化の音がする
という俗謡が新聞に掲載され、流行したが、これは新政府の木戸孝允が新聞の果たす役割が大きいことに着目し掲載させたもので、文明開化にザンギリ頭が欠くことのできないものであるという観念を国民に植え付けたのだそうだ(※3:「全国理容生活衛生同業組合連合会」の理容の歴史のここ参照)。
男性が髪型改革で混乱した影響からか、女性の中から黒髪をバッサリと切ってしまう人が現れた。これに対し、政府部内でもこの現象を問題視して、明治5 年4月5日(1872年5月11日)に「婦女子のザンギリと男装はひっきょう『散髪の儀は勝手たるべし』とのかねての布告の趣旨のとり違えであるから婦女は従前のとおりにせよ」という布告を出すに至り、ついには、明治6年(1873年2 月13日には「婦人断髪禁止令」が出されている。
そののち「婦人束髪会」(著者:豊原国周。※4参照)は、男性の断髪に対する政府の「散髪七徳の広告」(大坂新聞・明治6年1月20付け。※3のここ参照)と同様に、「女子の今日の結髪は、実に無駄遣いである」と結髪の不経済さを説くなどして、執拗に日本髪廃止に力を入れた(※3のここ参照)。以後、新しく開発された近代束髪は明治の女性の間に多く見られるようになるが、 基本的に女性は明治時代になっても髪を結うのが普通であって、「カットでそろえる」という概念はなかったようだ。
そのため、最初は理容美容が一緒だった法律「理容師法」が昭和23年(1948年)1月につくられ、徐々に成熟してきたことによって、昭和32年(1957年)に、単独の法律「理容師法」「美容師法」に分かれたのだという。※3また理美容を参照)。
現在の理容店は、一般的に床屋という呼び名を用いるが、これは江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称し、髪結いといったが、男の髪を結ったり、ひげやさかやき(月代)をそったりするのを職業とした店を「髪結い床」と呼んだことに由来する。
床屋発祥の地は山口県下関市といわれており、髪結職の業祖に関しては江戸時代中期につくられたといわれる「一銭職由緒書」という史料が各地に伝えられているそうで、同書によれば、藤原鎌足の子孫である藤原晴基(または基晴)の三男ともいわれる藤原采女亮政之が新羅人から技術を学び髪結所を開業したのが始まりとされているそうだ。
店の中に床の間を設け亀山天皇と藤原家を奉る祭壇があり、人々は“床の間のある店”から転じて“床屋”という屋号で呼ぶようになったという。采女之亮はその後鎌倉に移り、幕府からも重用されるほどになったといわれている。
そして、日本における理美容業の祖として、昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとしていたようだ(※3のここ参照)。
髪を結う場合、自分で髪を結う場合と人に結ってもらう場合がある。
雑用をこなす召使がいる武士と違い、庶民は自分で、月代(さかやき)を剃ることができず髪結いに頼んでいた(貧しい人は月代を伸ばしっぱなしにしたり妻に剃ってもらうなどした)。
江戸時代になって髪結い職というのが、社会的要求から男子の場合は公に許された鑑札制となり、慶長末(17世紀初頭)の高札には「一銭剃り」とか「一文剃り」とあるという(NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第六巻服飾編)。
男性の髪結いは月代が広まった室町後期位から江戸初期に永楽銭一文程度の料金で髪を結い月代を剃った「一銭剃」が起源だといわれている。髪結いは町や村単位で抱えられ、床と呼ばれる仮店で商売を行ったため床屋とも呼ばれる。
床屋が特に多かったのは独身男性が多い江戸だったが万治年間(17世紀中頃)、江戸市中に髪結床の株を設け、1町内に1か所、八百八町に1件ずつとして八百八株と定めた。床屋の数はこれ以後増え続け、幕末には2400余り開業されているという。
1軒の店舗を構えたりせず江戸初期は江戸も京阪も大きな橋の袂など往来の多い所へ床を置き、葦簀(よしず)や幕の類を巡らして、通行人の求めに応じて月代を剃ったり髪を結った。
江戸の男性はかなり頻繁に床屋に通っていたらしく床屋は番所や社交場としても利用された。
江戸や大阪・京都では、髪結い職人の数を限定して営業保障をする一方、髪結いに対して交役を課し、床屋は幕府に届出して開業した後は町の管理下で見張りなどの役割を果たしており番所や会所と融合したものを内床、橋のそばや辻で営業するものを出床、また髪結いの道具一式を納めた道具箱を持って得意先回りをするものは廻り髪結いと呼ばれた(大坂では床髪結は牢番役を務めその中核には一人の組頭がいたという)。
当時の床屋は現在の美容院と違って客の髭を剃ったり眉を整えたり耳掃除までしていたため、かなり長い年月の修行が必要になる技術職でもあったようだ。床屋の料金は天明年間でおおよそ一回280文前後で、月代・顔剃り、耳掃除、髪の結いなおしをする。
一方、得意先と年季契約して出張する「廻り髪結い」は大店などに抱えられており、主人からは一回100文前後、ほかの従業員はその半額程度の料金を取ったという。決められた料金のほかに、「あごつき」といって得意先に食事を出してもらう契約のところもあり、また祝い事のご祝儀なども届けられるなど、腕のよい髪結いならそれなりに余裕のある暮らしを送っていたようである。
上掲の画像は「(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた江戸時代以降の屏風絵『洛中洛外図屏風』(舟木本、屏風六曲一双)東京国立博物館蔵に、描かれている「床屋と番人」である。原画は以下でみられる。向かって左から2曲目橋の袂に描かれている。
東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 洛中洛外図
上掲の画像は、式亭三馬の滑稽本『浮世床』に描かれている「髪結い床」の図である。
この図に出てくる床屋は、長屋の一角に店を構え、客は上り框の板敷に座り、月代や顔をそり、髷を結いなおしてもらっている。親方のほかに下職も何人かいた。湯屋の二階(※5参照)と同様、順番待ちの客にとっては良い社交場でもあった。
上掲の画像は場所回りの髪結床(出床)の図である。向かって左:山東京伝作・画『青楼晝之世界錦之裏』国立国会図書館蔵。右:英泉画 「髪結い床の図」名古屋市博物館蔵である。
左図は、遊郭などを回り、夫人の髪を結っている(女髪結い)。女の人の髪は遊女以外は自分で結うことを原則とし、髪を結えれば一人前と言われた。女性の髪を手がける女髪結いは明和年間(1764年から1771年)あたりから登場したようだ。奢侈を戒めることから何度か禁令が出たようだ。また、右図、英泉の『青楼晝之世界錦之裏』の原画は以下でみられる。
電子図書 戯場訓蒙図彙 - 文化デジタルライブラリー
上掲の画像は、歌舞伎を題材とした読み物『戯場訓蒙図彙』(享保3年=1803年 初代(歌川豊国画)に出てくる芝居の楽屋裏に設けられた「床山」の図である。役者の髪を専門に結う職人を床山と呼び、現代もその名は続いている。(※ここに掲載の画像等はいずれも私の蔵書NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第一巻生活編、第六巻服飾編のものを使用した)。
江戸時代までの月代を剃り、髷を結う床屋ではなく、現代的な西洋理髪をする床屋を、明治の初めころは西洋床と呼んでいた。その最初の西洋床は、外国との通商条約(日米修好通商条約を参照)が締結されたことにより開港された港町から始まるが、特に江戸に近い横浜で始まった。
その祖は南京町で開業した小倉虎吉や松本定吉という人物等だとされている。
そして、一般の人たちが、散切り(ざんぎり)頭になったのは、散髪脱刀令が出された後の1873(明治6年)3月明治天皇が西洋風に断髪したことで、官吏を中心にこれに従う者が増え、一般の国民も同様にする者が増えていったが、それでも保守的な男髷姿を選ぶ人を(半ば揶揄して)「丁髷頭」と呼ぶようになった。そして、1887(明治20)年頃には、殆どの人が散切り頭になったといわれている。
これで床屋とサインポールの話は終わるが、「なぜ?」「なぜ?」を連発するののちゃん・・・いや、多くの小さな子供の質問に辟易している人も多いのではないかと思うが、大変なことではあるが、その質問にちゃんと答えてやるのが一番の教育なのだろう。
古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「知らないのに知っていると思っている人より、知らないので知らないと思っている人(無知の知)のほうが優れている」と言っており、弟子のプラトン等への教育方法としては“相手に問いかけて、答えを相手の言葉で相手の中から引き出す”=“問答法”が有名。
ソクラテスは「 私は自分が何も知らないということを知っている 」と主張して いるのだからソクラテス自身は何も教えはしない。
ただ、知らないから教えてと「問うこと」だけをする。問われた相手の回答に納得できなければ更に問いを出す。
これを繰り返し最後には、相手は自分の納得できる回答をする。この答は 相手の中で出来たもの。だからソクラテスは教えていないことになるのだ。
ソクラテスの場合は「これはなにか?」と問答しながら、結局最後には相手に自らその真実を気づかせている。
これとは逆に、仕事でも勉強でも疑問があった時には、 知らないことは知ったふりをせずに人に聞くことが大切である。
ところが最近の若者は、聞くのが恥ずかしい。まあよくわからないけどいいやと解決しないことが多くあるようだ。
そういうことを積み重ねていると、後々痛い目を見ることになる。
『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』・・・という諺もある。
私も現役時代感じたことであるが、学生時代とは異なり、一般社会では仕事のできる人と頭の良し悪し(この場合、一流の大学を出たとか、なんでも良く知っているとか)はあまり関係ない。
仕事のできる人とできない人は「、知らないことを知らないとわきまえているか否か」で決まる。
仕事でも勉強でもできる人ほど、判らないことは判らないと疑問点は質問していることが多い。つまり、知ったかぶりはしていない。
彼らは、聞くことを恥ずかしいなどと思わず、わからないままにしておいて、成果が出ないことを恥ずかしいと思っている人達である。
若いうちは特に誰にでもなんでも聞けるという特権を持っている。年を重ねるほどに聞きづらいことも、若いうちなら許される。そしてチャレンジし、失敗することも・・・・。
生涯に約1300もの発明をしたアメリカの発明家・起業家であるトーマス・エジソンは、発明王また、エジソンの研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで「メンロパークの魔術師」とも呼ばれるが、彼の功績は、伝記などに記されている“発明”ではなく“発明”という行為を大勢の人間に認知させたことが何よりも重要なことであったと言われている。
それまでの発明と言うものは「立派な学校を出た一流の科学者が作り出すもの」という既成概念があった。しかしエジソンは幼いころから正規の教育を受けられないという困難に見舞われたが、図書館などで独学し、新聞の売り子(販売員)として働くことでわずかなお金をコツコツと貯め自分の実験室を作った逸話などでも知られている。16歳ころには電信技士として働くようになり、さまざまな土地を放浪しつつも、自力で様々な科学雑誌を読破して学び続けた。耳が不自由になったにもかかわらず、それに負けず、努力を積み重ね成功したことでも知られている。
エジソンは成功した人物として知られているが、その一方で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に数々の失敗・敗北を経験したことでも知られいる。
そんな努力の積み重ねで身に付けた科学知識で様々な発明を作り上げていった。そして発明を一般人にも手の届く、アメリカンドリームを実現する手段へと多くの人たちに夢を与えた人であった。
数多くの発明の中では「電球を発明した」人物としても有名だが、実際には電球の原理はエジソン以前にすでに知られ、エジソンの独創ではない。彼は、電球などの家電を含めて発電から送電までを含む電力の事業化をして普及させ、その電気の流れに乗せてさまざまな電化製品を開発・製造・販売した偉大なイノベーターであったのである(※7参照)。
そんなエジソンの名言・格言(※8参照)には、
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだと言いたまえ。」
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ。」
「私たちの最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ。」
・・・といったように失敗を恐れないチャレンジする姿勢こそが、成功の条件だと言っている。ただ、当然、判らないことをわからないままにしていたわけではないだろう。自分で知らべ、判らないことは当然誰にでも相談しながら実験した事だろうと私は思っている。
無論、人にものを聞くのに、全く考えずに、質問していてはいけないが、独りで考えても解決しないことは、質問すべきだろう。
何も考えずに質問しても実力はつかない。自分なりに論理を組み立て、ここまではわかるが、この部分がわからない。この部分について、自分はこう思うのだが、なぜこうなのか。といったような自分なりの見解を持って、質問をしなければいけないだろう・・・。
経営の神様と言われる松下幸之助も質問することの大切さを説いている。「成功した秘訣は何か」と聞かれた時に彼は「わからないことがあったら人に尋ねることだ」と答えているのである(※9参照)。
ただ、今日の「床屋さんとサインポール」の質問をしたののちゃんのような小さな子供は好奇心の塊のようなもの。子どもにとってはなにごとも初体験で、自分が知らないことはストレートに素直に聞いてくる。それに対して、「そんなことはもう少し大きくなればわかる・・」などと拒否せずに、なんでも真面目に答えてやることが大切だろう。
そして、ソクラテスじゃないけれど、「それでこれはどうなると思う?」と新たな質問を投げかけて考えさせたり、一緒に百科事典などで調べてみて一緒に勉強してやることがその子の成長へのより動機づけとなるのではないか。
それやこれやで、今日は、「ののちゃんのDO科学」過去記事(※9)などについて、一緒に子供と話しをしてみても面白いかもしれないね。
参考:
※1:サインポール - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB
※2:日本心臓財団HP−赤いハートは聖杯から
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/14.html
※3:全国理容生活衛生同業組合連合会
http://www.riyo.or.jp/
※4: 国立国会図書館デジタル化資料 - 婦人束髪会
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305531
※5:世風呂:江戸の湯屋・ページ5
http://www5.ocn.ne.jp/~ukiyo26/yuya5.html
※6:自己成長のチャンスは質問力にあった!経営の神様・松下幸之助も認めるその重要性 ...
http://u-note.me/note/47485774
※7:電力事業と計測の歴史 (その1) - 日本電気技術者協会
http://www.jeea.or.jp/course/contents/02102/
※8:トーマス・エジソンの名言・格言集。失敗は勉強である!
http://iyashitour.com/archives/20390
※9:asahi.com:過去記事一覧 - ののちゃんのDO科学 - NIE
http://www.asahi.com/edu/nie/tamate/index2.html