2月19日「雨水」(うすい)
「雨水」・・・を国語辞書で引くと、?あまみず。?二十四節気の一「雨水」(うすい)の2つが出てくる。?は空から降る雨のことだが、この話は後に回し、?のことから始めよう。
二十四節気とは、節分を基準に1年を24等分して約15日ごとに分けた季節のことで、雨水(うすい)は、旧暦正月 (睦月)の中気で立春から15日目にあたり、現在広まっている定気法では太陽黄経が330度に達するとき、新暦では2月18日か19日ごろ(今年2012年は今日・2月19日)。
暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間(時)とする。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄の前日までである。
ニ十四節気にはさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されているが、それは、中国の気候に合わせたものである。日本では、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によってこれを日本の気候風土に合うように改訂された「本朝七十二候」が作成され、暦注など生活暦において使われるようになった。現在では、1874(明治7)年の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われているようだ。
略本暦(日本)の雨水の期間の七十二候は以下の通り。
初候:雨が降って土が湿り気を含む
次候:霞始靆(かすみ はじめて たなびく):霞がたなびき始める
末候:草木が芽吹き始める
雨水の頃、旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝う。神戸の「南京町」では、今年も1月23日の春節(初一=元旦)から、賑やかに春節祭(※1)が催されていた。
薩埵(さった)富士雪縞あらき雨水かな(風生)
うすい【雨水】を調べていると国語辞書(goo辞書)に上記の富安風生の句が載っていた。
静岡県静岡市清水区にある薩た峠(さったとうげ)は、歌川広重の浮世絵東海道五十三次では16番・由比宿と17・興津宿の間に位置し、この峠からの富士山と駿河湾の景色は、東海道五十三次にも残されるほどの絶景である。しかし、雨水といっても関東ではこの時期くらいまで富士にはよく雪が降るのだと聞く。
『暦便覧』(※2)には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されており、空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころとされている。それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
雨が降りやすくなるが、春の雨は暖かさの後にやってくるものだ。そして、一雨ごとに暖かくなる。このころ、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽(ほうが)のきざしが見えてくる。昔から、農耕の準備は、この雨水を目安に始められた。
今年は寒波の影響で日本海側は記録的な豪雪が続いた。まだまだ寒さの厳しい2月だが、気候は、確実に春へ向かって動いてはいるのである。
日本の食の根幹となる米をはじめとする五穀を生産する農業にとって、水はなくてはならないものであり、干害や冷害は農民にとって一番の敵となった。干害が続くと農民達は神社へ祈願したり、雨乞い踊りをした。日照りが続くと分水を巡って争いも起こった。
江戸時代の農業は栽培法や農具などに発達を見ることが出来るが、それでも自然に頼る部分も多く、神に頼る様々な行事があった。日照りが続いたときに雨を神に祈る雨乞いは江戸時代末期にも行なわれていた。
上から1枚目は、雨乞いおどり 『御問状答書』 国立公文書館蔵。2枚目の画は山東京伝『近世奇跡考』(文化元年刊)所載の物で江戸の隅田川堤上を向島三囲社に雨乞いをする農民の一行である。(画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第三巻政治社会編より1枚目、第二巻産業編より2枚目を借用)。
1枚目の画『御問状答書』は福山藩の思想家・菅茶山の書いたもののようだ。また、余談だが、向島三囲社(三囲神社)は、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという(Wikipedia)。
同社には、「雨乞いの碑」なるものもあるらしいが、この神社や其角(きかく)の雨乞いの句の伝説はよく出来すぎているというので当時からそれを揶揄した川柳も多くあるらしい。そのようなことに纏わる面白い話は、参考※3:「森川和夫のホームページ」の廣重の風景版画の研究(1)-12佐野喜 東都名所之内 隅田川八景三囲暮雪に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
雨水は冒頭で、書いたように国語辞書でも、?あまみずのこともいう。これからは、雨と、水のことについて触れてみよう。
先ず、参考※4:「常用漢字:読み書き使い方字典」の「雨」の字を見てみよう(部首 雨)。
「雨」字は空から地上へと降ってくる水滴である雨を意味している。天にある雲の間から水が落ちてくる様子に象(かたど)っている。
偏旁の意符としては気象や天候に関わることを示す漢字が作られ、多くは冠の位置に置かれ、上下構造を作っている。
雨部はこのような意符を構成要素にもつ漢字を収めており、常用漢字で雨冠の漢字は、「雪・雲・雰・電・雷・零・需・震・霊・霜・霧・露」など12だが、これ以外「雹(ひょう)」「霰(あられ)」「霙(みぞれ)」「靄(もや)」「霞(かすみ)」「雫(しずく)」などのほか、私などには読めない漢字がまだまだたくさんある。
雨が多く、稲作など行なう農耕民族にとって、水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においても古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられ、田の神と結びついている。
雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈った。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、このようなことから雨の語源は、「天(あめ)」の同語とする説と「天水(あまみづ)」の約転とする説とがある。
『万葉集』には、大伴家持の以下の長歌が掲載されている。
「この見ゆる、天(あま)の白雲(しらくも)、海神(わたつみ)の、沖(おき)つ宮辺(みやへ)に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨(あめ)も賜(たま)はね・・・・」(第十八巻-4122)
「沖(おき)つ 宮辺(みやへ)」は、「沖にあるという海神の宮殿のあたり」といった意味、日照りのなか、山の低くなったところに見える天(雨)の白雲が沖にあるという海神の宮殿のあたりまで伸びていって雨を降らせてください・・・と祈るような気持ちで歌っている(※5参照)。
日本神話には、水に関する神として、罔象女神や闇龗神、闇罔象神のような神が登場する。
今流に言えば、雨(あめ)とは、大気中に含まれる水蒸気が、気温が下がったり上昇気流に運ばれたりすることで凝結して、細かな水滴(雨粒)となったものが、空から落ちてくる天候のこと。また、その水滴のことをいうが、気象学的には、雨は降水現象の一つと位置づけられる。この降水現象の中で、雨は最も頻度が高い。雨および降水現象は、地球上で水が循環する過程(水循環)の一部分に位置づけられ、生態系や地形といった地球の自然に深く関与している。
上掲の図は「水循環のモデル図」(Wikipediaより)
この水循環に影響を及ぼす人間の活動として古来一番深く関わっていたのが農業 といえるだろう。
水は、人が生命を維持するには必要不可欠なものであり、それは、農業だけでなくさまざまな産業活動においても同様である。
そのため、古代ギリシャでは哲学者タレスが「万物のアルケー(根源)は水」とし、自然哲学者エンペドクレスは四大元素のひとつで基本的な元素として水を挙げている。又、古代インドでも水は、五大のひとつとされ、中国の五行説でも基本要素のひとつと見なされている(水の知識の歴史概略参照)。
最も、現代の元素解釈とは異なるものの、水が人間にとっと必要不可欠な要素であることは、古代人によっても考えられていたということだ。
「万物を生かす水、降ったら降ったで不平を言う」・・・とは、人の身勝手さを言う言葉であるが、「万物を生かす水」は、このような哲学的思想から来ているのだろう。雨が降らず日照りの干ばつも困るが、豪雨による自然災害(干ばつや水害など)も困ったものだ。
古来より、人類は、限りない欲求を満たす為に、自らの知恵が生み出した科学により大いなる自然を犯し、破壊してきた。そのせいなのだろう、今、地球温暖化などによる異常気象から、世界の各地で、局地的な干ばつや集中豪雨による大災害をもたらしている。これからは、今発生しているような局地的集中豪雨なども異常気象とは言えなくなってしまうのかもしれない。これは、人間の自然破壊への天(神)の戒めということかも知れない。
「人類は農業を発明することによって都市文明を創(つく)ったきたが、その農業の性質が、ユーラシア大陸の東と西では違う。 夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。この気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになっている。」・・・と、哲学者であり、国際日本文化研究センター名誉教授 でもある梅原 猛は説く。
そして続いて、「小麦農業は牧畜を伴い、約一万二千年前に今のイスラエルの地で興り、約五千年前、今のイラクの地で都市文明を生んだ。 稲作農業も、最近の研究によって小麦農業と同じころ長江中流で発生し、養蚕を伴い、約六千年前に都市文明を生んだことがほぼ明らかになったという。
この二つの文明は、その農業生産の方法によっても思想を異にしており、 小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。 このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配されるべきものとされる。 そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。 その雨水を蓄えるのは森である。 したがってそこでは自然に対する畏敬(いけい)の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。
西の文明の優位は決定的であるように思われる。 なぜなら近代ヨーロッパは科学技術文明というすばらしい文明を生み出したからである。 この文明によって多くの人類はかって味わったことのない豊かで便利な生活を享受することができるようになった。
しかし、この文明の限界も二十世紀後半になってはっきりみえ始めた。 人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。」・・・と(※6)。
多神教の現存している代表例としては、民族的要素の強い日本の神道やアイヌの信仰(カムイ参照)、インドのヒンドゥー教や中国の道教もそうだというが、今では現存しない例として、古代エジプ(エジプト神話参照)やメソポタミア(メソポタミアの神々参照)、古代ギリシャの神々(ギリシア神話参照)、中南米のメソアメリカ文明(※7参照)やアンデス文明(※8参照)で信仰されていた神々などがある。
そもそも、一神教が生まれるまでは世界中いたるところで多神教が信じられ、むしろそれが普通の宗教ではなかったのではないか。
中でも、四季の変化、緑豊かな自然に恵まれた風土に生きてきた古代の日本人は、地上の森羅万象(宇宙に存在する一切のもの。あらゆる事物・現象)は、神々によって生み出され、神々が司っていると考えてきた。そのもっとも素朴な形態は、山や森、岩や水などの自然物に精霊が宿ると信じてきた、自然崇拝のアニミズムである。
やがて、山や森に宿る精霊は、どこからやって来たか、どういう存在なのかを人々が知ろうとするようになり、そして、名もない精霊は『神』として意識され、人間の生活に直接関係するようになり、八百万の神(やおよろずのかみ)として発展してきた。八百万神の文献上の初見は『古事記』上巻に「天の岩戸」の段にある「八百万神々、天(あめ)の安(やす)の河原に神集(かむつど)ひて」であり、『日本書紀』第七段にも「八十萬神」として登場する。
そのような太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つとされる宗教が神道などである。
そこでは、どうしても人間と自然との共存(同時に二つ以上のものが、争わずに生存すること。共有しないで、独自性を守る住み分け。)という思想が起こる訳である。
その後、日本に仏教が公式に伝来した(仏教公伝)のは、 欽明天皇の戊午の年(西暦538年)であるとされているが、それ以前に私的な信仰として入ってきている。
日本の仏教は古来より、様々な宗派の仏教が伝来してきた。その中からさらに多種多様な宗派が生まれ、そのほとんどが現在まで継承されている。世界の中でも希な形での宗教が受け継がれている国が日本とも言えるだろう。
仏教の中にも、古来から日本人が持ってきた「人間と自然との共存」といった思想がきっちりと根付いている。
その代表的なものが「縁起」(えんぎ)である。
仏教における「縁起」は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方である。この縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、因とは果(結果)を生じさせる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を示している。
つまり、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。
現代の日本人の多くは「神」も「仏」もそれら全部を混合して、自分にとって都合のいいものだけをとっている。いや、神道に於ける「神」や仏教における「仏」だけでなく、キリスト教その他も単なる宗教としてうけいれ、これらすべてが混在している・・・外国人から見れば日本人は何とも理解しがたい不思議な民族に見えるだろう・・・。
ここのところ、環境汚染や環境破壊を未然に防ぐ・また起こってしまった環境汚染や環境破壊の状況を改善し現状回復に努めるための環境保護(自然保護)、いわゆるエコロジー(Ecology)が言われて久しい。
環境を「Ecology」と認識したのは、19世紀半ばのドイツのヘッケルの主張にさかのぼる。アンナ・ブラムウエルが「エコロジー 起源とその展開」(河出書房出版1992年。※9参照)で、ヘッケル以来のエコロジーの歴史を詳述しているようで、この書物はエコロジーに多神教の一翼をなすアニミズム的要素を認めているという。
エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」(英: ecology)を意味するものらしいが、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方として、「eco」が接頭語としてしばしば用いられている。
かって世界の多くの国の人達がたくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知し、自然を神々として畏敬してきた。それが、梅原 猛が言っているように、その後、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、この世では人は別格の存在であり、その他の動物や自然を支配する資格のある者であるとの考え方から、自然を支配し始めそれが、やがて自然(環境)破壊にもつながってきた。この一神教的考えに対し、すべてのものに精霊(魂)が宿るというアニミズムなら、人も動物も自然も対等だから、エコロジー(自然保護)に繋がる。
だから、今日のように文明化した人々が忘れてしまったアニミズム(多神教)の考え方を復活させようではないかといった考えが今広がりつつあるようだ。
しかし、かつてはアニミズムのあった日本とはいえ、自然とはかけ離れた都市化した環境に住む現代の日本人にアニミズムが残っているとは考えにくいが、それでも、一神教の人達よりも日本人の心の底にはわずかだが残っているように思う。環境保護(自然保護)のためにも、日本人の持つアニミズム思想を世界人類と共に共有し、実践するなら、争いごと(戦争など)や自然破壊も、もう少し抑えられたのではないかと思うのだが・・・。
日本人は、小雨、にわか雨、時雨、春雨、穀雨、五月雨、梅雨、虎が雨、夕立、雷雨、秋雨、長雨、氷雨、寒の雨、霧雨、小糠雨、煙雨、細雨、そばえ(戯)、涙雨、篠突く雨、鉄砲雨、淫雨、恵みの雨、慈雨…等々、日本の独特の地形・風土、四季折々の自然の移り変わりの僅かな微妙な変化を捉えて雨には実に多くの名前をつけているが、これは、古より日本人が雨に親しみ、雨を愛で、感謝し、畏怖してきたことの表れでもある。この雨は、万葉の時代には100首を越える歌が詠まれ(※5の雨を詠んだ歌参照)、江戸時代には、すばらしい雨の風景画が多く描かれている。
江戸時代、当初、美人画や役者絵として出発した浮世絵だが、やがて、道中絵・名所絵をもう一つの柱とするようになった。その中に、すばらしい雨の風景画が多く含まれている。
歌川(安藤)広重も始めは役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1833年)、保永堂版「東海道五拾三次之内」を刊行し、これが大評判となり、以後「名所絵」の広重として名声を得ていく。
広重の絵は、四季や朝夕の季節、時間の移り変わりと風物の情趣に、自然現象である雨、風、雪、霧、月等の叙情性を盛り込んで、日本人の心の内にある日本の情景を見せてくれる。日本には雨を表す言葉が豊富にあるが、広重の雨の表現はこれらの言葉に応じるように多彩である。
例えば、「東海道五十三次之内」で、雨の画は3種3ヶ所。
8番目「大磯虎ケ雨」は、歌舞伎でも有名な曽我十郎が、仇討ちの果てに命を落とした陰暦5月28日、その愛人、大磯の遊女・虎御前が流した涙が「虎ヶ雨」。それを題材に梅雨時のしとしと降る雨を描いている(画像はリンクの大磯参照)。
45番目の「庄野の白雨」の「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい夕立のにわか雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの絵は、広重の最高傑作の一つとして知られている。風に揺れる二重の濃淡の竹薮に、激しく音を立てて降る雨の角度を変えるなど新しい技法が考え出されている(冒頭掲載の画)。
49番目の「土山の春の雨」は、京に向かう最後の難所の鈴鹿峠「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と鈴鹿馬子歌から題材を取ったもので、しとしと降る春雨に打たれながら、大名行列が続いている絵が描かれている(画像はリンクの土山参照)。
尚、冒頭掲載の「庄野の白雨」の画、それに、「大磯」「土山」にリンクされているところにあるものはWikipedia掲載のものであるが、余りきれいなものではない。これら画像は、以下参考に記載の※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」の物が綺麗なのでそこを見られたほうが良いよく理解できるだろう。又、上掲3種3ヶ所の説明文は、そのアダチ版画研究所での説明文を引用させてもらっている。
これら広重の雨の絵は、特徴的で、いずれも点ではなく線として雨を描き記号化されているが、それぞれに微妙な違いを表現している。浮世絵は西洋の印象派の画家たちにも影響を与えているが、ゴッホが模写したとして有名なのが、広重晩年期の傑作名所江戸百景の中の雨の作品「大はしあたけの夕立」である。ここ参照。
向かって右がゴッホの絵だが、ゴッホにしても、広重の微妙な雨の表現は出来ていないよな〜。
因みに、この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのは隅田川にかかる新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうである。
参考:
※1;南京町 春節祭
http://www.nankinmachi.or.jp/event/shunsetsu/2012/schedule.html
※2:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='暦便覧とは'
※3:森川和夫のホームページ
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/index.html
※4:常用漢字:読み書き使い方字典
http://www.geocities.jp/ssiq160/
※5:たのしい万葉集: 大伴家持(おおとものやかもち)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/yakamochi.html
※6:東アジア文明の語るもの( 出典 : 2004年7月20日 朝日新聞 )
http://www.geocities.jp/sugiurajunzou/inbanuma_higasiajiabunmei.html
※7:メソアメリカの宗教
http://yottyan.blog.sonet.ne.jp/2007-02-08
※8:アンデス・シャーマンの世界
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=260497
※9:『エコロジー−起源とその展開−』アンナ・ブラムウェル著/河出書房新社
http://homepage3.nifty.com/martialart/bramwell.htm
※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige_tokaido53.htm
雨が育てた日本文化(Adobe PDF)
http://www.skywater.jp/pdf/20050630_no2.pdf
一神教と多神教
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo03.htm
日本神話における南方的要素
http://japanese.hix05.com/Myth/myth01.html
日本の神話 古事記
http://www15.plala.or.jp/kojiki/
知恵と駄文の神殿
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/index.htm#4
五元集 - Waseda University Library - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04419/index.html宗教における共生と教育の意義(Adobe PDF)
http://www.lib.u-bunkyo.ac.jp/kiyo/1999/kyukiyo/MINESIMA_380.pdf#search='宗教における共生'
双魚宮 ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%8F%8C%E9%AD%9A%E5%AE%AE
二十四節気(にじゅうしせっき)
http://jinennjo.web.fc2.com/z1zatu/spot/sekki24.html
二十四節気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97
「雨水」・・・を国語辞書で引くと、?あまみず。?二十四節気の一「雨水」(うすい)の2つが出てくる。?は空から降る雨のことだが、この話は後に回し、?のことから始めよう。
二十四節気とは、節分を基準に1年を24等分して約15日ごとに分けた季節のことで、雨水(うすい)は、旧暦正月 (睦月)の中気で立春から15日目にあたり、現在広まっている定気法では太陽黄経が330度に達するとき、新暦では2月18日か19日ごろ(今年2012年は今日・2月19日)。
暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間(時)とする。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の啓蟄の前日までである。
ニ十四節気にはさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されているが、それは、中国の気候に合わせたものである。日本では、江戸時代に入って渋川春海ら暦学者によってこれを日本の気候風土に合うように改訂された「本朝七十二候」が作成され、暦注など生活暦において使われるようになった。現在では、1874(明治7)年の「略本暦」に掲載された七十二候が主に使われているようだ。
略本暦(日本)の雨水の期間の七十二候は以下の通り。
初候:雨が降って土が湿り気を含む
次候:霞始靆(かすみ はじめて たなびく):霞がたなびき始める
末候:草木が芽吹き始める
雨水の頃、旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝う。神戸の「南京町」では、今年も1月23日の春節(初一=元旦)から、賑やかに春節祭(※1)が催されていた。
薩埵(さった)富士雪縞あらき雨水かな(風生)
うすい【雨水】を調べていると国語辞書(goo辞書)に上記の富安風生の句が載っていた。
静岡県静岡市清水区にある薩た峠(さったとうげ)は、歌川広重の浮世絵東海道五十三次では16番・由比宿と17・興津宿の間に位置し、この峠からの富士山と駿河湾の景色は、東海道五十三次にも残されるほどの絶景である。しかし、雨水といっても関東ではこの時期くらいまで富士にはよく雪が降るのだと聞く。
『暦便覧』(※2)には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」と記されており、空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始めるころとされている。それゆえ、この時節から寒さも峠を越え、衰退し始めると見ることもできる。
雨が降りやすくなるが、春の雨は暖かさの後にやってくるものだ。そして、一雨ごとに暖かくなる。このころ、雨水ぬるみ、草木の発芽を促し、萌芽(ほうが)のきざしが見えてくる。昔から、農耕の準備は、この雨水を目安に始められた。
今年は寒波の影響で日本海側は記録的な豪雪が続いた。まだまだ寒さの厳しい2月だが、気候は、確実に春へ向かって動いてはいるのである。
日本の食の根幹となる米をはじめとする五穀を生産する農業にとって、水はなくてはならないものであり、干害や冷害は農民にとって一番の敵となった。干害が続くと農民達は神社へ祈願したり、雨乞い踊りをした。日照りが続くと分水を巡って争いも起こった。
江戸時代の農業は栽培法や農具などに発達を見ることが出来るが、それでも自然に頼る部分も多く、神に頼る様々な行事があった。日照りが続いたときに雨を神に祈る雨乞いは江戸時代末期にも行なわれていた。
上から1枚目は、雨乞いおどり 『御問状答書』 国立公文書館蔵。2枚目の画は山東京伝『近世奇跡考』(文化元年刊)所載の物で江戸の隅田川堤上を向島三囲社に雨乞いをする農民の一行である。(画像は、NHKデーター情報部編ヴィジュアル百科『江戸事情』第三巻政治社会編より1枚目、第二巻産業編より2枚目を借用)。
1枚目の画『御問状答書』は福山藩の思想家・菅茶山の書いたもののようだ。また、余談だが、向島三囲社(三囲神社)は、元禄6年(1693年)、旱魃(かんばつ)の時、松尾芭蕉の一番弟子と言われる俳人宝井其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地(=夕立のこと)や田を見めくり(三囲)の神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀したという(Wikipedia)。
同社には、「雨乞いの碑」なるものもあるらしいが、この神社や其角(きかく)の雨乞いの句の伝説はよく出来すぎているというので当時からそれを揶揄した川柳も多くあるらしい。そのようなことに纏わる面白い話は、参考※3:「森川和夫のホームページ」の廣重の風景版画の研究(1)-12佐野喜 東都名所之内 隅田川八景三囲暮雪に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
雨水は冒頭で、書いたように国語辞書でも、?あまみずのこともいう。これからは、雨と、水のことについて触れてみよう。
先ず、参考※4:「常用漢字:読み書き使い方字典」の「雨」の字を見てみよう(部首 雨)。
「雨」字は空から地上へと降ってくる水滴である雨を意味している。天にある雲の間から水が落ちてくる様子に象(かたど)っている。
偏旁の意符としては気象や天候に関わることを示す漢字が作られ、多くは冠の位置に置かれ、上下構造を作っている。
雨部はこのような意符を構成要素にもつ漢字を収めており、常用漢字で雨冠の漢字は、「雪・雲・雰・電・雷・零・需・震・霊・霜・霧・露」など12だが、これ以外「雹(ひょう)」「霰(あられ)」「霙(みぞれ)」「靄(もや)」「霞(かすみ)」「雫(しずく)」などのほか、私などには読めない漢字がまだまだたくさんある。
雨が多く、稲作など行なう農耕民族にとって、水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においても古くから雨のことを草木を潤す水神として考えられ、田の神と結びついている。
雨が少い場合は、雨乞いなどの儀式が行われ、雨が降ることを祈った。「天」には「天つ神のいるところ」との意味があり、このようなことから雨の語源は、「天(あめ)」の同語とする説と「天水(あまみづ)」の約転とする説とがある。
『万葉集』には、大伴家持の以下の長歌が掲載されている。
「この見ゆる、天(あま)の白雲(しらくも)、海神(わたつみ)の、沖(おき)つ宮辺(みやへ)に、立ちわたり、との曇(ぐも)りあひて、雨(あめ)も賜(たま)はね・・・・」(第十八巻-4122)
「沖(おき)つ 宮辺(みやへ)」は、「沖にあるという海神の宮殿のあたり」といった意味、日照りのなか、山の低くなったところに見える天(雨)の白雲が沖にあるという海神の宮殿のあたりまで伸びていって雨を降らせてください・・・と祈るような気持ちで歌っている(※5参照)。
日本神話には、水に関する神として、罔象女神や闇龗神、闇罔象神のような神が登場する。
今流に言えば、雨(あめ)とは、大気中に含まれる水蒸気が、気温が下がったり上昇気流に運ばれたりすることで凝結して、細かな水滴(雨粒)となったものが、空から落ちてくる天候のこと。また、その水滴のことをいうが、気象学的には、雨は降水現象の一つと位置づけられる。この降水現象の中で、雨は最も頻度が高い。雨および降水現象は、地球上で水が循環する過程(水循環)の一部分に位置づけられ、生態系や地形といった地球の自然に深く関与している。
上掲の図は「水循環のモデル図」(Wikipediaより)
この水循環に影響を及ぼす人間の活動として古来一番深く関わっていたのが農業 といえるだろう。
水は、人が生命を維持するには必要不可欠なものであり、それは、農業だけでなくさまざまな産業活動においても同様である。
そのため、古代ギリシャでは哲学者タレスが「万物のアルケー(根源)は水」とし、自然哲学者エンペドクレスは四大元素のひとつで基本的な元素として水を挙げている。又、古代インドでも水は、五大のひとつとされ、中国の五行説でも基本要素のひとつと見なされている(水の知識の歴史概略参照)。
最も、現代の元素解釈とは異なるものの、水が人間にとっと必要不可欠な要素であることは、古代人によっても考えられていたということだ。
「万物を生かす水、降ったら降ったで不平を言う」・・・とは、人の身勝手さを言う言葉であるが、「万物を生かす水」は、このような哲学的思想から来ているのだろう。雨が降らず日照りの干ばつも困るが、豪雨による自然災害(干ばつや水害など)も困ったものだ。
古来より、人類は、限りない欲求を満たす為に、自らの知恵が生み出した科学により大いなる自然を犯し、破壊してきた。そのせいなのだろう、今、地球温暖化などによる異常気象から、世界の各地で、局地的な干ばつや集中豪雨による大災害をもたらしている。これからは、今発生しているような局地的集中豪雨なども異常気象とは言えなくなってしまうのかもしれない。これは、人間の自然破壊への天(神)の戒めということかも知れない。
「人類は農業を発明することによって都市文明を創(つく)ったきたが、その農業の性質が、ユーラシア大陸の東と西では違う。 夏に雨の多い東のモンスーン地帯には稲作農業が、雨の少ない西には小麦農業が興った。この気候の違いが農業の違いになり、それが東と西の文明の決定的な違いになっている。」・・・と、哲学者であり、国際日本文化研究センター名誉教授 でもある梅原 猛は説く。
そして続いて、「小麦農業は牧畜を伴い、約一万二千年前に今のイスラエルの地で興り、約五千年前、今のイラクの地で都市文明を生んだ。 稲作農業も、最近の研究によって小麦農業と同じころ長江中流で発生し、養蚕を伴い、約六千年前に都市文明を生んだことがほぼ明らかになったという。
この二つの文明は、その農業生産の方法によっても思想を異にしており、 小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。 このような文明においては、人間の力が重視され、一切の生きとし生けるものを含む自然は人間に支配されるべきものとされる。 そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。 その雨水を蓄えるのは森である。 したがってそこでは自然に対する畏敬(いけい)の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。
西の文明の優位は決定的であるように思われる。 なぜなら近代ヨーロッパは科学技術文明というすばらしい文明を生み出したからである。 この文明によって多くの人類はかって味わったことのない豊かで便利な生活を享受することができるようになった。
しかし、この文明の限界も二十世紀後半になってはっきりみえ始めた。 人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。」・・・と(※6)。
多神教の現存している代表例としては、民族的要素の強い日本の神道やアイヌの信仰(カムイ参照)、インドのヒンドゥー教や中国の道教もそうだというが、今では現存しない例として、古代エジプ(エジプト神話参照)やメソポタミア(メソポタミアの神々参照)、古代ギリシャの神々(ギリシア神話参照)、中南米のメソアメリカ文明(※7参照)やアンデス文明(※8参照)で信仰されていた神々などがある。
そもそも、一神教が生まれるまでは世界中いたるところで多神教が信じられ、むしろそれが普通の宗教ではなかったのではないか。
中でも、四季の変化、緑豊かな自然に恵まれた風土に生きてきた古代の日本人は、地上の森羅万象(宇宙に存在する一切のもの。あらゆる事物・現象)は、神々によって生み出され、神々が司っていると考えてきた。そのもっとも素朴な形態は、山や森、岩や水などの自然物に精霊が宿ると信じてきた、自然崇拝のアニミズムである。
やがて、山や森に宿る精霊は、どこからやって来たか、どういう存在なのかを人々が知ろうとするようになり、そして、名もない精霊は『神』として意識され、人間の生活に直接関係するようになり、八百万の神(やおよろずのかみ)として発展してきた。八百万神の文献上の初見は『古事記』上巻に「天の岩戸」の段にある「八百万神々、天(あめ)の安(やす)の河原に神集(かむつど)ひて」であり、『日本書紀』第七段にも「八十萬神」として登場する。
そのような太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つとされる宗教が神道などである。
そこでは、どうしても人間と自然との共存(同時に二つ以上のものが、争わずに生存すること。共有しないで、独自性を守る住み分け。)という思想が起こる訳である。
その後、日本に仏教が公式に伝来した(仏教公伝)のは、 欽明天皇の戊午の年(西暦538年)であるとされているが、それ以前に私的な信仰として入ってきている。
日本の仏教は古来より、様々な宗派の仏教が伝来してきた。その中からさらに多種多様な宗派が生まれ、そのほとんどが現在まで継承されている。世界の中でも希な形での宗教が受け継がれている国が日本とも言えるだろう。
仏教の中にも、古来から日本人が持ってきた「人間と自然との共存」といった思想がきっちりと根付いている。
その代表的なものが「縁起」(えんぎ)である。
仏教における「縁起」は、仏教の根幹をなす思想の一つで、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方である。この縁起の語は「因縁生起」(いんねんしょうき)の略で、因とは果(結果)を生じさせる直接の原因、縁とは外的・間接的な原因を示している。
つまり、ある結果が生じる時には、直接の原因(近因)だけではなく、直接の原因を生じさせた原因やそれ以外の様々な間接的な原因(遠因)も含めて、あらゆる存在が互いに関係しあうことで、それら全ての関係性の結果として、ある結果が生じるという考え方である。
現代の日本人の多くは「神」も「仏」もそれら全部を混合して、自分にとって都合のいいものだけをとっている。いや、神道に於ける「神」や仏教における「仏」だけでなく、キリスト教その他も単なる宗教としてうけいれ、これらすべてが混在している・・・外国人から見れば日本人は何とも理解しがたい不思議な民族に見えるだろう・・・。
ここのところ、環境汚染や環境破壊を未然に防ぐ・また起こってしまった環境汚染や環境破壊の状況を改善し現状回復に努めるための環境保護(自然保護)、いわゆるエコロジー(Ecology)が言われて久しい。
環境を「Ecology」と認識したのは、19世紀半ばのドイツのヘッケルの主張にさかのぼる。アンナ・ブラムウエルが「エコロジー 起源とその展開」(河出書房出版1992年。※9参照)で、ヘッケル以来のエコロジーの歴史を詳述しているようで、この書物はエコロジーに多神教の一翼をなすアニミズム的要素を認めているという。
エコロジー(Ecology)とは本来は「生態学」(英: ecology)を意味するものらしいが、近年では人間生活と自然との調和などを表す考え方として、「eco」が接頭語としてしばしば用いられている。
かって世界の多くの国の人達がたくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知し、自然を神々として畏敬してきた。それが、梅原 猛が言っているように、その後、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、この世では人は別格の存在であり、その他の動物や自然を支配する資格のある者であるとの考え方から、自然を支配し始めそれが、やがて自然(環境)破壊にもつながってきた。この一神教的考えに対し、すべてのものに精霊(魂)が宿るというアニミズムなら、人も動物も自然も対等だから、エコロジー(自然保護)に繋がる。
だから、今日のように文明化した人々が忘れてしまったアニミズム(多神教)の考え方を復活させようではないかといった考えが今広がりつつあるようだ。
しかし、かつてはアニミズムのあった日本とはいえ、自然とはかけ離れた都市化した環境に住む現代の日本人にアニミズムが残っているとは考えにくいが、それでも、一神教の人達よりも日本人の心の底にはわずかだが残っているように思う。環境保護(自然保護)のためにも、日本人の持つアニミズム思想を世界人類と共に共有し、実践するなら、争いごと(戦争など)や自然破壊も、もう少し抑えられたのではないかと思うのだが・・・。
日本人は、小雨、にわか雨、時雨、春雨、穀雨、五月雨、梅雨、虎が雨、夕立、雷雨、秋雨、長雨、氷雨、寒の雨、霧雨、小糠雨、煙雨、細雨、そばえ(戯)、涙雨、篠突く雨、鉄砲雨、淫雨、恵みの雨、慈雨…等々、日本の独特の地形・風土、四季折々の自然の移り変わりの僅かな微妙な変化を捉えて雨には実に多くの名前をつけているが、これは、古より日本人が雨に親しみ、雨を愛で、感謝し、畏怖してきたことの表れでもある。この雨は、万葉の時代には100首を越える歌が詠まれ(※5の雨を詠んだ歌参照)、江戸時代には、すばらしい雨の風景画が多く描かれている。
江戸時代、当初、美人画や役者絵として出発した浮世絵だが、やがて、道中絵・名所絵をもう一つの柱とするようになった。その中に、すばらしい雨の風景画が多く含まれている。
歌川(安藤)広重も始めは役者絵から出発、やがて美人画に手をそめたが、南宋画も学んで、天保3年(1833年)、保永堂版「東海道五拾三次之内」を刊行し、これが大評判となり、以後「名所絵」の広重として名声を得ていく。
広重の絵は、四季や朝夕の季節、時間の移り変わりと風物の情趣に、自然現象である雨、風、雪、霧、月等の叙情性を盛り込んで、日本人の心の内にある日本の情景を見せてくれる。日本には雨を表す言葉が豊富にあるが、広重の雨の表現はこれらの言葉に応じるように多彩である。
例えば、「東海道五十三次之内」で、雨の画は3種3ヶ所。
8番目「大磯虎ケ雨」は、歌舞伎でも有名な曽我十郎が、仇討ちの果てに命を落とした陰暦5月28日、その愛人、大磯の遊女・虎御前が流した涙が「虎ヶ雨」。それを題材に梅雨時のしとしと降る雨を描いている(画像はリンクの大磯参照)。
45番目の「庄野の白雨」の「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい夕立のにわか雨に、坂道を往来する人々を生き生きと描写したこの絵は、広重の最高傑作の一つとして知られている。風に揺れる二重の濃淡の竹薮に、激しく音を立てて降る雨の角度を変えるなど新しい技法が考え出されている(冒頭掲載の画)。
49番目の「土山の春の雨」は、京に向かう最後の難所の鈴鹿峠「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る」と鈴鹿馬子歌から題材を取ったもので、しとしと降る春雨に打たれながら、大名行列が続いている絵が描かれている(画像はリンクの土山参照)。
尚、冒頭掲載の「庄野の白雨」の画、それに、「大磯」「土山」にリンクされているところにあるものはWikipedia掲載のものであるが、余りきれいなものではない。これら画像は、以下参考に記載の※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」の物が綺麗なのでそこを見られたほうが良いよく理解できるだろう。又、上掲3種3ヶ所の説明文は、そのアダチ版画研究所での説明文を引用させてもらっている。
これら広重の雨の絵は、特徴的で、いずれも点ではなく線として雨を描き記号化されているが、それぞれに微妙な違いを表現している。浮世絵は西洋の印象派の画家たちにも影響を与えているが、ゴッホが模写したとして有名なのが、広重晩年期の傑作名所江戸百景の中の雨の作品「大はしあたけの夕立」である。ここ参照。
向かって右がゴッホの絵だが、ゴッホにしても、広重の微妙な雨の表現は出来ていないよな〜。
因みに、この絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのは隅田川にかかる新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうである。
参考:
※1;南京町 春節祭
http://www.nankinmachi.or.jp/event/shunsetsu/2012/schedule.html
※2:吉田光由の古暦便覧について
http://www5.ocn.ne.jp/~jyorin/kirisitankoreki.pdf#search='暦便覧とは'
※3:森川和夫のホームページ
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/index.html
※4:常用漢字:読み書き使い方字典
http://www.geocities.jp/ssiq160/
※5:たのしい万葉集: 大伴家持(おおとものやかもち)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/poet/yakamochi.html
※6:東アジア文明の語るもの( 出典 : 2004年7月20日 朝日新聞 )
http://www.geocities.jp/sugiurajunzou/inbanuma_higasiajiabunmei.html
※7:メソアメリカの宗教
http://yottyan.blog.sonet.ne.jp/2007-02-08
※8:アンデス・シャーマンの世界
http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=260497
※9:『エコロジー−起源とその展開−』アンナ・ブラムウェル著/河出書房新社
http://homepage3.nifty.com/martialart/bramwell.htm
※10:浮世絵のアダチ版画研究所:歌川 広重 「東海道五十三次」
http://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/item/hiroshige_tokaido53.htm
雨が育てた日本文化(Adobe PDF)
http://www.skywater.jp/pdf/20050630_no2.pdf
一神教と多神教
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/onryo/onryo03.htm
日本神話における南方的要素
http://japanese.hix05.com/Myth/myth01.html
日本の神話 古事記
http://www15.plala.or.jp/kojiki/
知恵と駄文の神殿
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/index.htm#4
五元集 - Waseda University Library - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04419/index.html宗教における共生と教育の意義(Adobe PDF)
http://www.lib.u-bunkyo.ac.jp/kiyo/1999/kyukiyo/MINESIMA_380.pdf#search='宗教における共生'
双魚宮 ‐ 通信用語の基礎知識
http://www.wdic.org/w/CUL/%E5%8F%8C%E9%AD%9A%E5%AE%AE
二十四節気(にじゅうしせっき)
http://jinennjo.web.fc2.com/z1zatu/spot/sekki24.html
二十四節気 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E7%AF%80%E6%B0%97