1952(昭和27)年の今日10月16日は、 昭和天皇・香淳皇后が戦後初めて靖国神社に行幸された日である。
靖国神社は、東京都千代田区にある神社であり、同神社は、以前に、このブログ「東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)」(*1参照)でも書いたように、その前身は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により創建された「東京招魂社」が始まりであり、本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
その後の事変や戦争、ひいては大東亜戦争で殉死した日本の軍人などが祀られることになるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。
國神社は、勅祭社で旧別格官幣社であったが、戦後の1946(昭和21)年に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の宗教法人となった。
昭和天皇は、終戦直後から1975(昭和50)年まで、10回靖國神社の行幸をしていたが、1975(昭和50)年11月21日の大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣は行っている。
昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、「宮中祭祀が憲法違反である」・・・とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978(昭和53)年に極東国際軍事裁判(東京裁判とも呼ばれる)でのA級戦犯14名(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている(A級戦犯合祀問題参照)。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。
この問題(靖国神社問題)に対する論争は今日まで続いているが、今日ここで意見を述べるつもりはない。関心のある方は、日本国との平和条約第11条の解釈や、参考*3、*4等を参照し自分で判断されるとよい)。
冒頭で、「1952年昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日」と書いたが、正確に書けば、終戦直後の.1945(昭和20)年8月20日、同年11月・臨時大招魂祭にも昭和天皇は行幸されており、(1952(昭和27)年の行幸は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約「日本国との平和条約」(「サンフランシスコ講和条約」ともいう)締結以降初めての行幸と書くべきだろう。
冒頭掲載の画像は、天皇皇后両陛下が10月16日、7年ぶりに靖国神社に参拝したときのもの。東京の近県からも駆け付けた遺族らは、黄色いリボンの遺族章を付け、拝殿前のうすべりに座って両陛下を送迎した。「両陛下のご参拝で心のしこりがとれた」と遺族に一人は語ったという。
第二次大戦中、1945(昭和20)年5月7日、この時日本とともに戦っていた、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏した。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になった。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。
一方、「神洲不敗」(8月15日の玉音放送で使用された「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ・・・」と出てくる)を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
連合軍は沖縄での膨大な被害(沖縄戦参照)を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止に追い込む一因となった(中止理由は作戦中止参照)。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
そして、7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われ、同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。
しかし、鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。
このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことにもなった。
散々な被害を受けた後、日本政府がポツダム宣言受諾の意思を連合国へ直接通告したのは同年8月14日であり、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受諾を国民へ表明し戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。ソ連軍による北方領土の択捉島、国後島占領は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからのことであった。このソ連からの北方領土返還問題はいまだに解決していない(北方領土問題参照)。
8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
その後9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、米・英・中・豪・加・仏・蘭など連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵,外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書(*5:「王立図書館」第二次世界大戦資料館→文書・音声保管庫参照)への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結したが, この大戦では、わが国に310万人余りという未曾有の人的被害のつめ跡を残した。また、終戦後においても、旧ソ連軍による強制抑留(シベリア抑留参照)等により亡くなられた方々も多くを数えている。
しかし、降伏文書調印後の日本本土は、サンフランシスコ講和条約締結までの間、アメリカを中心とする連合国軍(GHQ)による占領統治下に置かれた.(連合国軍占領下の日本参照)。
占領地の行政権(日本本土除く)は剥奪され、日本の外交権も停止され、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通をも管理した。漁業活動のための航海も、マッカーサーラインを暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置かれるなど、何をするにも日本の自由にはならなかった。
輸出用日本で製造された製品品には、Made in Japan(メイド・イン・ジャパン、日本製)と表記される。しかし、戦後占領期の日本では、1947(昭和22)年2月の連合国軍最高司令官指令として、輸出向け製品には「 Made in Occupied Japan 」(占領下日本製)と表示することが義務付けられた(1949年(昭和24年)12月解除)。
以下の画像は私のコレクションの一つ「オキュパイドもの」と言われるものである。一輪挿しだろうか?酒好きの私は、これをタンブラーとして利用しているが・・。底の部分には「 Made in Occupied Japan 」と刻印されている。
今の国会の最大の焦点である、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法は、19日未明の参議院本会議で採決が行われ可決・成立した(*6、*7参照)。野党がこれに反対し徹底抗戦していた最大の理由はこれら法案の違憲性の問題であったように思う。
その憲法は、占領下の中にあって、1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始され、連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が一部加えられ、翌・1946(昭和21)年11月3日に新憲法として公布されたものであるが、設立過程、解釈と体制を巡って、現在もなお日本国内で論争が続いているのは、主として平和主義(戦争放棄)についてであろう。
かねてから憲法第9条を主とする憲法改正論議がされながら、戦後70年経った今でもまだ改正されないのは、憲法を改正する為には、衆議院、参議院で憲法改正案2/3以上で可決し、その後、国民投票で1/2以上で可決しなければならないが、まず、国会で議席数を単独で2/3以上を取れる政党がないことである。このような厳しい縛りがあるから、諸外国ではその時代の状況に応じて改正されている憲法が日本では改正できない実情がある。
しかし、現実に日本を取り巻く安全保障環境が変化し厳しい状況にある中、憲法を守って国がつぶれてしまってはダジャレもならない。政府批判をするのはたやすいが、国防を司るものにとっては、有事に備えて必要な防衛体制だけは整備しておかなければならないだろうし、憲法改正が不可能であれば、憲法解釈論で対応せざる面もあることも理解しておかなければならないのではないだろうか。
1951(昭和26)年9月の、サンフランシスコ講和条約には「日本国が主権国(主権を完全に行使できる国家)として国際連合憲章第五十一条(*8参照)に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極(とりきめ)を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される(*9、参照)。この問題について、違憲性や、憲法解釈論の是非をここでこれ以上触れるつもりはない。この問題を考えるのであればまずは、以下ページなどとよいのではないだろうか・・・。
安保法案とは?
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(上)
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(下)
1951年9月8日(日本時間9日)、第二次世界大戦に敗れてアメリカなど占領下にあった日本が6年ぶりに国際社会への復帰を認められた。
この日午前10時過ぎ、アメリカサンフランシスコのオペラハウスで対日講和条約の調印式が行われアメリカをはじめ48か国との講和条約が締結され、日本側は吉田茂首相をはじめ池田勇人蔵相ら計6人の日本全権が署名した。
上掲の画像は、日本全権の署名シーン。署名しているのは吉田首相。写真はアメリカ公文書館蔵。
続いて、同日夕方、オペラハウスから車で10分ほど離れたサンフランシスコ湾口の金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)近くにある米軍基地プレシデオ(Presidio)で、駐留米軍に日本国内の基地を提供することを取り決めた日米安全保障条約(旧日米安保条約と呼ばれるもの条文*10参照)が調印された。米軍は講和条約の全権4人が署名したが、日本側は、首相が単独で調印。他の全権は署名をしていない。吉田は反対の空気の強い安保の署名の責任を一人で負う方を取ったようだが、秘密条約を除き世界の外交史上まれな異常そのものの調印プロセスをたどって作成された条約ではある(1960年に新日米安保条約が発効したことに伴い、失効した。旧安保と新安保の相違点はここ参照)。
上掲の画像は外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」
講和が予想より早く実現したのは激化する冷戦のお陰であった。講和と安保によって、戦後日本の方向は決まった。「全面講和」「永世中立」論から離れて、日本は西側陣営の一員としてアメリカ依存を強めていくことになる。
敗戦国日本は、1952(昭和27)年4月28日、6年8か月ぶりに主権を回復するとともに国際社会へ復帰した。前年9月のサンフランシスコ講和会議で調印された対日平和条約が、最大の交戦国だったアメリカの批准書寄託を待って発効し、イギリス、フランスなど手続きを済ませていた29か国と国交を回復したからである。
現代でも残る沖縄基地問題等を残した条約ではあったが、敗戦国日本にとっては、講和条約の締結により、絶対的な存在であった占領軍権力の消滅は、国内政治では、吉田派と鳩山派の抗争(*11:「資料に見る日本の近代」の第6章 55年体制の形成 > a. 吉田内閣から鳩山内閣へ参照> 吉田対鳩山参照)、再軍備をめぐる保守・革新の論争、日本共産党の武力闘争(武装闘争、*12など参照)などの激動を生み出したが、経済やスポーツ面の国際交流の復活は日本国民に大きな希望をもたらした。
日本の国際社会復帰を国民が肌で実感したのは、同年7月にフィンランドのヘルシンキで開かれた第15回オリンピック大会だったのではないか。
もともと日本は1936(昭和11)年のベルリンオリンピックに続き1940(昭和15)年に東京で夏季、札幌で冬季両大会(東京オリンピック 参照)を開催することがIOC総会(国際オリンピック委員会)で決まっていた。ところが日中戦争の激化で、返上した経緯がある。第2次大戦後初の1948 (昭和23)年ロンドン大会には、ドイツとともに招待されなかった。
世界を戦火に巻き込んだ元凶として国際社会から白眼視されていたからである。それだけにベルリン大会以来16年ぶりの参加となったヘルシンキ大会は、スポーツ関係者ばかりでなく一般国民にとっても「待ちに待った大会」であり、選手団派遣費用の大半を一般市民や企業からの募金と記念バッジの売り上げで賄うなど、国民的な支援活動が展開された。
ただ、当時まだ保有外貨が乏しかった(日本の外貨準備高の変遷参照)政府は、派遣選手団の人数を厳しく制限した(*13参照)。そのためオリンピック出場の実績がなかった重量挙げ、フェンシング、射撃の三種目では、選手一人にコーチなしの参加となった。
この大会では、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八が優勝し、日本に唯一の金メダルをもたらし、フライ級では北野祐秀が銀メダルを獲得し、レスリング日本の幕開きとなった。そのほかの競技では、競泳や体操などで、銀5個、銅2個、を獲得している(「ヘルシンキオリンピックでの国・地域別メダル受賞数一覧」を参照)。
上掲の画像は、ヘルシンキ五輪のレスリング、フリースタイル・バンタム級で日本に唯一の金メダルをもたらした石井庄八。
経済面で国際社会復帰の具体的なあかしとなったのは、1952(昭和27 )年5月29日に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認したことである。
IMFは国際貿易を活発化するために為替相場の安定を図る機関であり、世界銀行は戦災復興や開発途上国の資源開発のための資金を融資する機関である。
この二つの組織に加盟を許可されたことは、第二次世界大戦後の国際経済運営の枠組みとしてアメリカ主導で組織された「ブレトン・ウッズ体制」(1944年のIMF設立から1971年8月のニクソンショックまでの間、世界経済を支えてきた国際通貨体制。ブレトンウッズ協定による。*14も参照)に、日本もようやく迎え入れられたことを意味していた。
日本に割り当てられたIMF出資金は2億5000万ドルで、これはオランダに次ぐ9番目の金額だったが、当時の池田勇人蔵総は3億ドルの負担を申し出る。この強気を支えたのは、朝鮮戦争がもたらした戦時の特殊な米軍特需(朝鮮特需)による日本経済の急激な復興だった。
日銀『貿易及び貿易外便覧』(1959年12月)によると、特需収入は1950(昭和25)年では1.5億ドル。朝鮮戦争特需のピークは1952(昭和27)年の8.2億ドルで、輸出総額の2/3、外国為替受取高の4割近くとなった。1950年からの4ヵ年累計では24億ドルに上ったという(*15:「情報史年表」1950年代参照)。
これは当時の国際収支赤字を補填したうえに大量の外貨蓄積を可能にし、開戦前のドッジラインによる不況を一挙に解消して、高度経済成長への足場をかためたのである(*16参照)。
国際社会に乗り出すためには航空や海運の整備も欠かせない。1952(昭和27)年7月1日には羽田空港の地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「 東京国際空港」に改名して開港した。当初は、国際線33往復、国内線4往復のささやかな「空の玄関」だったようだ。
海運関係では、前年には、横浜ーニューヨーク航路が再開され、1952年6月24日には日本郵船がスエズ運河経由の欧州航路を復活させた。サンフランシスコ講和条約発効を受けて、戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港したのは、日本郵船の赤城丸(Ⅱ)だった(*17、*18参照)。
上掲の画像は、戦後初めて「日の丸」を形容してニューヨークに入港する日本郵船の赤城丸。
また、この年、東京銀行(旧: 横浜正金銀行。現:三菱東京UFJ銀行)が,外国為替銀行として、初めて海外支店をロンドンに設け、国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)が公布され、翌年4月1日に開業の運びとなった。
このように、様々な分野で日本が国際社会復帰の第一歩をふみだしたのが、1952(昭和27)年であり、昭和天皇の終戦直後の1945年8月20日及び、同年11月の臨時大招魂祭の2度の行幸以来、7年目となる1952年10月16日の靖国神社行幸は、あの戦争での多くの戦死者を慰霊すると同時に、何とかこ日本がここまで来られた現状を報告したかったからではないだろうか。私はそのように思っているのだが・・・。
(上掲の画像中、Wikipediaより借用の、外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」のほかは、『朝日クロニクル週刊20世紀』1951年号、1952年号より借用、また、ブログを書くにあたり、以下参考に記載のHP以外同書も参考にさせてもらっている。)
参考:
*1:靖国神社公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/index.html?mode=skip
*2:東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20090604
*3:日本に戦犯は存在しない?:-YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12119141127
*4:サンフランシスコ平和条約第11条に関する資料
http://1st.geocities.jp/nmwgip/SF11.html
*5:王立図書館
http://royallibrary.sakura.ne.jp/index.html
*6:安全保障関連法 参院本会議で可決・成立 NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150919/k10010241451000.html
*7:和安全法制等の整備について - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html
*8:国連憲章テキスト | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/
*9:防衛省・自衛隊:日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定
http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/sougo/sougo.html
*10:日米安全保障条約原文(旧)(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T2J.html
*11:史料に見る日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/index.html
*12:内側からみた日共'50年代武装闘争 (長谷川浩・由井誓の対談)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/650.html
*13:歴代夏季五輪の参加国や競技種目、日本選手の参加数など
http://ouenbu.com/olympic/natsu-sanka.html
*14:ブレトン・ウッズ体制
http://www.findai.com/yogo/0307.htm
*15:情報史年表
http://www.digistats.net/x/index.php?%BE%F0%CA%F3%BB%CB%C7%AF%C9%BD
*16:独り21‐経常収支
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-21.html
*17:戦後占領期海事年表
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
*18:日本郵船の歴史 | 日本郵船
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
外国為替銀行の成立
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn86.html
日本オリンピック委員会公式HP
http://www.joc.or.jp/
日本の再軍備 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-010.html
【安保法案閣議決定】よく分かる新しい安保法制Q&A(1/4ページ) - 産経ニュース ...
http://www.sankei.com/politics/news/150514/plt1505140045-n1.html
靖国神社―Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE
靖国神社は、東京都千代田区にある神社であり、同神社は、以前に、このブログ「東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)」(*1参照)でも書いたように、その前身は、1869(明治2)年に戊辰戦争での朝廷方の戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により創建された「東京招魂社」が始まりであり、本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊であり、よくみられる神社などのように日本神話に登場する神や天皇などではない。
その後の事変や戦争、ひいては大東亜戦争で殉死した日本の軍人などが祀られることになるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。
國神社は、勅祭社で旧別格官幣社であったが、戦後の1946(昭和21)年に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の宗教法人となった。
昭和天皇は、終戦直後から1975(昭和50)年まで、10回靖國神社の行幸をしていたが、1975(昭和50)年11月21日の大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)を最後に行わなくなった。ただし例大祭(春と秋の年に2回)に際しては、勅使の発遣は行っている。
昭和天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、「宮中祭祀が憲法違反である」・・・とする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、1978(昭和53)年に極東国際軍事裁判(東京裁判とも呼ばれる)でのA級戦犯14名(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)が合祀されたことに対して不満であったことを原因とする見方が、歴史学界では有力となっている(A級戦犯合祀問題参照)。ただし、合祀後も勅使の発遣は継続されている。
この問題(靖国神社問題)に対する論争は今日まで続いているが、今日ここで意見を述べるつもりはない。関心のある方は、日本国との平和条約第11条の解釈や、参考*3、*4等を参照し自分で判断されるとよい)。
冒頭で、「1952年昭和天皇・皇后が戦後初めて靖国神社に行幸した日」と書いたが、正確に書けば、終戦直後の.1945(昭和20)年8月20日、同年11月・臨時大招魂祭にも昭和天皇は行幸されており、(1952(昭和27)年の行幸は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本との間の戦争状態を終結させるために締結された平和条約「日本国との平和条約」(「サンフランシスコ講和条約」ともいう)締結以降初めての行幸と書くべきだろう。
冒頭掲載の画像は、天皇皇后両陛下が10月16日、7年ぶりに靖国神社に参拝したときのもの。東京の近県からも駆け付けた遺族らは、黄色いリボンの遺族章を付け、拝殿前のうすべりに座って両陛下を送迎した。「両陛下のご参拝で心のしこりがとれた」と遺族に一人は語ったという。
第二次大戦中、1945(昭和20)年5月7日、この時日本とともに戦っていた、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏した。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になった。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めたが、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北の責任を回避し続ける大本営の議論は迷走を繰り返す。
一方、「神洲不敗」(8月15日の玉音放送で使用された「大東亜戦争終結ノ詔書」にも「神州ノ不滅ヲ信シ・・・」と出てくる)を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
連合軍は沖縄での膨大な被害(沖縄戦参照)を苦慮し、それを超える被害を受けるのを猛烈に嫌がり、この言葉は連合軍の日本本土上陸作戦(ダウンフォール作戦)を中止に追い込む一因となった(中止理由は作戦中止参照)。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。
そして、7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われ、同26日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。
しかし、鈴木内閣は、中立条約を結んでいたソ連による和平仲介に期待し、同宣言を黙殺する態度に出た。
このような降伏の遅れは、その後の本土空襲や原子爆弾投下、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも更なる惨禍をもたらすことにもなった。
散々な被害を受けた後、日本政府がポツダム宣言受諾の意思を連合国へ直接通告したのは同年8月14日であり、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によってポツダム宣言受諾を国民へ表明し戦闘行為は停止された(日本の降伏)。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。
しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、8月22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。ソ連軍による北方領土の択捉島、国後島占領は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからのことであった。このソ連からの北方領土返還問題はいまだに解決していない(北方領土問題参照)。
8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
その後9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、米・英・中・豪・加・仏・蘭など連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵,外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書(*5:「王立図書館」第二次世界大戦資料館→文書・音声保管庫参照)への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)はついに終結したが, この大戦では、わが国に310万人余りという未曾有の人的被害のつめ跡を残した。また、終戦後においても、旧ソ連軍による強制抑留(シベリア抑留参照)等により亡くなられた方々も多くを数えている。
しかし、降伏文書調印後の日本本土は、サンフランシスコ講和条約締結までの間、アメリカを中心とする連合国軍(GHQ)による占領統治下に置かれた.(連合国軍占領下の日本参照)。
占領地の行政権(日本本土除く)は剥奪され、日本の外交権も停止され、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通をも管理した。漁業活動のための航海も、マッカーサーラインを暫定的に引き、講和後に廃止されるまで制限下に置かれるなど、何をするにも日本の自由にはならなかった。
輸出用日本で製造された製品品には、Made in Japan(メイド・イン・ジャパン、日本製)と表記される。しかし、戦後占領期の日本では、1947(昭和22)年2月の連合国軍最高司令官指令として、輸出向け製品には「 Made in Occupied Japan 」(占領下日本製)と表示することが義務付けられた(1949年(昭和24年)12月解除)。
以下の画像は私のコレクションの一つ「オキュパイドもの」と言われるものである。一輪挿しだろうか?酒好きの私は、これをタンブラーとして利用しているが・・。底の部分には「 Made in Occupied Japan 」と刻印されている。
今の国会の最大の焦点である、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法は、19日未明の参議院本会議で採決が行われ可決・成立した(*6、*7参照)。野党がこれに反対し徹底抗戦していた最大の理由はこれら法案の違憲性の問題であったように思う。
その憲法は、占領下の中にあって、1945(昭和20)年10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始され、連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が一部加えられ、翌・1946(昭和21)年11月3日に新憲法として公布されたものであるが、設立過程、解釈と体制を巡って、現在もなお日本国内で論争が続いているのは、主として平和主義(戦争放棄)についてであろう。
かねてから憲法第9条を主とする憲法改正論議がされながら、戦後70年経った今でもまだ改正されないのは、憲法を改正する為には、衆議院、参議院で憲法改正案2/3以上で可決し、その後、国民投票で1/2以上で可決しなければならないが、まず、国会で議席数を単独で2/3以上を取れる政党がないことである。このような厳しい縛りがあるから、諸外国ではその時代の状況に応じて改正されている憲法が日本では改正できない実情がある。
しかし、現実に日本を取り巻く安全保障環境が変化し厳しい状況にある中、憲法を守って国がつぶれてしまってはダジャレもならない。政府批判をするのはたやすいが、国防を司るものにとっては、有事に備えて必要な防衛体制だけは整備しておかなければならないだろうし、憲法改正が不可能であれば、憲法解釈論で対応せざる面もあることも理解しておかなければならないのではないだろうか。
1951(昭和26)年9月の、サンフランシスコ講和条約には「日本国が主権国(主権を完全に行使できる国家)として国際連合憲章第五十一条(*8参照)に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極(とりきめ)を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される(*9、参照)。この問題について、違憲性や、憲法解釈論の是非をここでこれ以上触れるつもりはない。この問題を考えるのであればまずは、以下ページなどとよいのではないだろうか・・・。
安保法案とは?
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(上)
再軍備の政治的展開と国民世論の動向(下)
1951年9月8日(日本時間9日)、第二次世界大戦に敗れてアメリカなど占領下にあった日本が6年ぶりに国際社会への復帰を認められた。
この日午前10時過ぎ、アメリカサンフランシスコのオペラハウスで対日講和条約の調印式が行われアメリカをはじめ48か国との講和条約が締結され、日本側は吉田茂首相をはじめ池田勇人蔵相ら計6人の日本全権が署名した。
上掲の画像は、日本全権の署名シーン。署名しているのは吉田首相。写真はアメリカ公文書館蔵。
続いて、同日夕方、オペラハウスから車で10分ほど離れたサンフランシスコ湾口の金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)近くにある米軍基地プレシデオ(Presidio)で、駐留米軍に日本国内の基地を提供することを取り決めた日米安全保障条約(旧日米安保条約と呼ばれるもの条文*10参照)が調印された。米軍は講和条約の全権4人が署名したが、日本側は、首相が単独で調印。他の全権は署名をしていない。吉田は反対の空気の強い安保の署名の責任を一人で負う方を取ったようだが、秘密条約を除き世界の外交史上まれな異常そのものの調印プロセスをたどって作成された条約ではある(1960年に新日米安保条約が発効したことに伴い、失効した。旧安保と新安保の相違点はここ参照)。
上掲の画像は外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」
講和が予想より早く実現したのは激化する冷戦のお陰であった。講和と安保によって、戦後日本の方向は決まった。「全面講和」「永世中立」論から離れて、日本は西側陣営の一員としてアメリカ依存を強めていくことになる。
敗戦国日本は、1952(昭和27)年4月28日、6年8か月ぶりに主権を回復するとともに国際社会へ復帰した。前年9月のサンフランシスコ講和会議で調印された対日平和条約が、最大の交戦国だったアメリカの批准書寄託を待って発効し、イギリス、フランスなど手続きを済ませていた29か国と国交を回復したからである。
現代でも残る沖縄基地問題等を残した条約ではあったが、敗戦国日本にとっては、講和条約の締結により、絶対的な存在であった占領軍権力の消滅は、国内政治では、吉田派と鳩山派の抗争(*11:「資料に見る日本の近代」の第6章 55年体制の形成 > a. 吉田内閣から鳩山内閣へ参照> 吉田対鳩山参照)、再軍備をめぐる保守・革新の論争、日本共産党の武力闘争(武装闘争、*12など参照)などの激動を生み出したが、経済やスポーツ面の国際交流の復活は日本国民に大きな希望をもたらした。
日本の国際社会復帰を国民が肌で実感したのは、同年7月にフィンランドのヘルシンキで開かれた第15回オリンピック大会だったのではないか。
もともと日本は1936(昭和11)年のベルリンオリンピックに続き1940(昭和15)年に東京で夏季、札幌で冬季両大会(東京オリンピック 参照)を開催することがIOC総会(国際オリンピック委員会)で決まっていた。ところが日中戦争の激化で、返上した経緯がある。第2次大戦後初の1948 (昭和23)年ロンドン大会には、ドイツとともに招待されなかった。
世界を戦火に巻き込んだ元凶として国際社会から白眼視されていたからである。それだけにベルリン大会以来16年ぶりの参加となったヘルシンキ大会は、スポーツ関係者ばかりでなく一般国民にとっても「待ちに待った大会」であり、選手団派遣費用の大半を一般市民や企業からの募金と記念バッジの売り上げで賄うなど、国民的な支援活動が展開された。
ただ、当時まだ保有外貨が乏しかった(日本の外貨準備高の変遷参照)政府は、派遣選手団の人数を厳しく制限した(*13参照)。そのためオリンピック出場の実績がなかった重量挙げ、フェンシング、射撃の三種目では、選手一人にコーチなしの参加となった。
この大会では、レスリングフリースタイルバンタム級の石井庄八が優勝し、日本に唯一の金メダルをもたらし、フライ級では北野祐秀が銀メダルを獲得し、レスリング日本の幕開きとなった。そのほかの競技では、競泳や体操などで、銀5個、銅2個、を獲得している(「ヘルシンキオリンピックでの国・地域別メダル受賞数一覧」を参照)。
上掲の画像は、ヘルシンキ五輪のレスリング、フリースタイル・バンタム級で日本に唯一の金メダルをもたらした石井庄八。
経済面で国際社会復帰の具体的なあかしとなったのは、1952(昭和27 )年5月29日に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)が日本の加盟を承認したことである。
IMFは国際貿易を活発化するために為替相場の安定を図る機関であり、世界銀行は戦災復興や開発途上国の資源開発のための資金を融資する機関である。
この二つの組織に加盟を許可されたことは、第二次世界大戦後の国際経済運営の枠組みとしてアメリカ主導で組織された「ブレトン・ウッズ体制」(1944年のIMF設立から1971年8月のニクソンショックまでの間、世界経済を支えてきた国際通貨体制。ブレトンウッズ協定による。*14も参照)に、日本もようやく迎え入れられたことを意味していた。
日本に割り当てられたIMF出資金は2億5000万ドルで、これはオランダに次ぐ9番目の金額だったが、当時の池田勇人蔵総は3億ドルの負担を申し出る。この強気を支えたのは、朝鮮戦争がもたらした戦時の特殊な米軍特需(朝鮮特需)による日本経済の急激な復興だった。
日銀『貿易及び貿易外便覧』(1959年12月)によると、特需収入は1950(昭和25)年では1.5億ドル。朝鮮戦争特需のピークは1952(昭和27)年の8.2億ドルで、輸出総額の2/3、外国為替受取高の4割近くとなった。1950年からの4ヵ年累計では24億ドルに上ったという(*15:「情報史年表」1950年代参照)。
これは当時の国際収支赤字を補填したうえに大量の外貨蓄積を可能にし、開戦前のドッジラインによる不況を一挙に解消して、高度経済成長への足場をかためたのである(*16参照)。
国際社会に乗り出すためには航空や海運の整備も欠かせない。1952(昭和27)年7月1日には羽田空港の地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「 東京国際空港」に改名して開港した。当初は、国際線33往復、国内線4往復のささやかな「空の玄関」だったようだ。
海運関係では、前年には、横浜ーニューヨーク航路が再開され、1952年6月24日には日本郵船がスエズ運河経由の欧州航路を復活させた。サンフランシスコ講和条約発効を受けて、戦後初めて日の丸を掲げてニューヨークに入港したのは、日本郵船の赤城丸(Ⅱ)だった(*17、*18参照)。
上掲の画像は、戦後初めて「日の丸」を形容してニューヨークに入港する日本郵船の赤城丸。
また、この年、東京銀行(旧: 横浜正金銀行。現:三菱東京UFJ銀行)が,外国為替銀行として、初めて海外支店をロンドンに設け、国際電信電話株式会社法(昭和27年法律第301号)が公布され、翌年4月1日に開業の運びとなった。
このように、様々な分野で日本が国際社会復帰の第一歩をふみだしたのが、1952(昭和27)年であり、昭和天皇の終戦直後の1945年8月20日及び、同年11月の臨時大招魂祭の2度の行幸以来、7年目となる1952年10月16日の靖国神社行幸は、あの戦争での多くの戦死者を慰霊すると同時に、何とかこ日本がここまで来られた現状を報告したかったからではないだろうか。私はそのように思っているのだが・・・。
(上掲の画像中、Wikipediaより借用の、外務省外交資料館蔵「旧)日米安保条約」のほかは、『朝日クロニクル週刊20世紀』1951年号、1952年号より借用、また、ブログを書くにあたり、以下参考に記載のHP以外同書も参考にさせてもらっている。)
参考:
*1:靖国神社公式HP
http://www.yasukuni.or.jp/index.html?mode=skip
*2:東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅰ,Ⅱ)-今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/d/20090604
*3:日本に戦犯は存在しない?:-YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12119141127
*4:サンフランシスコ平和条約第11条に関する資料
http://1st.geocities.jp/nmwgip/SF11.html
*5:王立図書館
http://royallibrary.sakura.ne.jp/index.html
*6:安全保障関連法 参院本会議で可決・成立 NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150919/k10010241451000.html
*7:和安全法制等の整備について - 内閣官房
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/housei_seibi.html
*8:国連憲章テキスト | 国連広報センター
http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/
*9:防衛省・自衛隊:日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定
http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/sougo/sougo.html
*10:日米安全保障条約原文(旧)(東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室)、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T2J.html
*11:史料に見る日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/index.html
*12:内側からみた日共'50年代武装闘争 (長谷川浩・由井誓の対談)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/650.html
*13:歴代夏季五輪の参加国や競技種目、日本選手の参加数など
http://ouenbu.com/olympic/natsu-sanka.html
*14:ブレトン・ウッズ体制
http://www.findai.com/yogo/0307.htm
*15:情報史年表
http://www.digistats.net/x/index.php?%BE%F0%CA%F3%BB%CB%C7%AF%C9%BD
*16:独り21‐経常収支
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-21.html
*17:戦後占領期海事年表
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
*18:日本郵船の歴史 | 日本郵船
http://homepage3.nifty.com/jpnships/showa3/showa03_nenpyo.htm
外国為替銀行の成立
http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn86.html
日本オリンピック委員会公式HP
http://www.joc.or.jp/
日本の再軍備 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-010.html
【安保法案閣議決定】よく分かる新しい安保法制Q&A(1/4ページ) - 産経ニュース ...
http://www.sankei.com/politics/news/150514/plt1505140045-n1.html
靖国神社―Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE