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分割・民営化された最後の国鉄総裁を務めた杉浦喬也 の亡くなった日

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今日1月16日は、元運輸官僚で、分割・民営化された国鉄の最後の総裁を務めた杉浦喬也(すぎうら・たかや)が死去(2008年)して5年目になる。
杉浦は1925(大正14)年8月15日東京大森で生まれ、東大経済学部卒業。1951(昭和26)年に運輸省(現国土交通省)へ入省。
1969年鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になる。1982(昭和57)年から運輸事務次官を務める。
1982(昭和57)年7月、第2次臨時行政調査会国鉄(日本国有鉄道)の分割・民営化を答申。
運輸事務次官を退官後、1985(昭和60)年6月、国鉄分割民営化に消極的で非分割民営化を推進していた仁杉巌第9代国鉄総裁が、当時の中曽根康弘内閣総理大臣の強い意向を受けて辞任、その後任を受ける形で6月25日第10代国鉄総裁に就任した。就任後、分割民営化を取り仕切り強力に推進。
民営化後は、旧国鉄の債務を引き継ぐ国鉄清算事業団の初代理事長に転じ、1991(平成3)年全日空会長に就任。1999(平成11)年、勲一等瑞宝章受章。平成20年1月16日死去した。<享年82歳>。

大学卒業後、運輸省に入省し、国鉄と並走するが如く運輸官僚人生を駆け抜けた杉浦の推進した国鉄分割民営化の方法やその評価について、意見は様々ある。
今日はそんな、杉浦個人のことを書くつもりはない。ここでは、世界に誇る日本の鉄道・・・・、かっての国鉄が民営化に至るまでの軌跡を簡単に追ってみようと思う。

明治維新の翌年、明治新政府は東西両京を結ぶ鉄道幹線と定め、東京―横浜間と、琵琶湖から敦賀港に至る線を支線とすること、また、これを官営によって建設することを決定し、鉄道建設を開始した。
そして、日本の鉄道が、新橋駅 - 横駅間で正式開業したのは1872(明治5)年9月12日(旧暦新暦だと10月14日)のことであった。ただし、実際にはその数か月前から品川 - 横浜(後の桜木町)間で仮営業が行われていた(※1)。
冒頭に掲載の画像は、“浮世絵に描かれた開業当初の鉄道(横浜)”、 画像はWikipediaより借用。
鉄道は大評判となり、開業翌1873(明治6)年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。
この結果「鉄道は儲かる」という認識が広まった。また旅客と貨物の比率について、鉄道側に貨物運用の準備不足もあったが、明治維新直後で近代産業が未発達な時期であり「運ぶ荷物がなかった」事も考えられる。
京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区も順調に建設が進み、1874(明治7)年5月11日には大阪駅 - 神戸駅間が開通したが、この時は仮開業として扱われ、開業式が行われたのは1877(明治10)年に京都駅まで延伸した時であった。尚、1875(明治8)年5月官鉄の神戸工場で輸入車両車軸による、客貨車を製造(客貨車の日本初国産)が行われている。

上掲の画像は「日本最古客車図」(Wikipedia-日本の客車史 より)。
1872(明治5)年に開業した日本最初の鉄道は、順調にスタートしたが、これらの鉄道は国による建設であり、国有国営を旨としていたものの、その後、1877(明治10)年に勃発した西南戦争による政府財政の窮乏により、新規建設は東海道線(1889年=明治22年全通)などを除いてほとんど停止.。幹線鉄道網の一部は政府の保護を受けた半官半民の会社としての日本鉄道などの私鉄により建設された。
しかし、日清(1894年7月〜1895年3月)・日露( 1904年2月〜1905年9月)の両戦争を経て、軍事輸送の観点などから鉄道国有論が高まり、1906(明治39)年に鉄道国有法が制定され、日本の鉄道網は基本的に国が運営することとなった。
これにより、1906(明治39)年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、17社(被買収私鉄の一覧参照)の2,812哩(約4,500km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
その後も鉄道敷設法に基づいて、私鉄の買収国有化が行われた。
明治維新によって新政府が発足した当時、アジアでは欧米列強諸国による植民地化が進んでいた。
日本はそれを避けるため、富国強兵による近代化を図った。鉄道の敷設も、その一策であった。
欧米では、極東の鎖国をしていた島国の日本が、当初は日本に鉄道技術がなかったにもかかわらず、外国人技師の指導を受けながらも、明治維新より僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、驚嘆の声が上がったといわれる。
Wikipedia(日本の鉄道史)には、歴史家のアーノルド・J・トインビーが、「人類の歴史の奇跡の一つは、日本の明治以降の近代化である」と述べていたが、新橋駅 - 横浜駅間開業から30年余りで7000kmを突破した日本の鉄道網が、その近代化を支えていたのは間違いない。・・・とあるが、私もその通りであろうと思う。

このように、鉄道国有法以降、第二次世界大戦直後までは、国(鉄道寮→鉄道院→鉄道省→運輸省)が全国の主要路線(国有鉄道)を直接運営していたが、終戦直後の一般産業は戦争の影響で停止した状態に入っており、国民の足といわれ、国民の動脈といわれている国鉄は、一瞬たりとも休止することを許されなかったが、その国鉄も、8年有余にわたる戦争により軌道は、全延長キロの約5%が戦災被害を被り、さらに、鉄道施設・車両も荒廃し、旅客も貨物も全く輸送需要に応じきれないという状態であった。
その上、労働力、それに石炭・鉄鋼(鉄を主成分とする金属材料の総称)等資材も不足しており、戦災で焼かれた駅舎はもちろん、ホームの屋根すら修理することができず、また、洪水等で流された橋梁も復旧できず、木製の仮橋で間にあわせるというような事態すら生まれた。
このような施設・車両の荒廃のさなか、1947(昭和22)年2月の八高線(小宮駅 - 拝島駅間の多摩川橋梁上)、同年4月の京浜東北線田端駅(※2)での追突事故、同年8月山陽本線(万富駅通過中(※3:「きはゆに資料室」の事故と安全対策の歴史参照)の脱線・転覆事故等重大事故及び荷物・貨物の紛失・盗難等が続出して、国有鉄道の体質・モラルの荒廃が議論の焦点とさえなっていた。したがって、国有鉄道の制度を根本的に改め、一刻でも早く輸送の正常化を図る必要性が生じていた。
そして、1949(昭和24)年、6月1日に国有鉄道は公共企業体公社)として改組され、日本国有鉄道の名称で発足した。
この公共企業体としての発足は、1872(明治5)年以来、官設官営の方式をとってきた国有鉄道にとって、根本的な改革を意味するものであったが、このような抜本的な改革の背景には、占領体制下にあって、当時絶対的権力を保持していたGHQの意向があった(のちに触れる)ものの、例え、そうでなくても、戦後の国有鉄道には早急に取り組まねばならない事情が多くあった。
国有鉄道では、日中戦争以後、戦争遂行のために女子、年少労働者の雇用が増大し、1944(、昭和19)年には、職員数は1936(昭和11)年の約2倍に達していた。
その後、終戦とともに軍召集者・引揚者の増加や戦災復興への着手等の業務のための新規採用もあって、職員数はさらに増大し、1947(22)年度には61万人(約51万人とも)にも達していたという(※4また※5:「国鉄があった時代」の労働運動と国鉄参照)。
このような状況のもとで、1949(昭和24)年7月、行政機関職員定員法(詳しくは、※6:「日本労働年鑑」の第23集(1951年版)>第三部 労働政策第二編 政府の労働政策 第五章 行政整理の”ここ ”参照)に基づく国鉄職員9万 5,000人(75000人とも(※4また※5参照)という大規模な人員整理が実施された。
一方、労働組合法(昭和二十年法律第五十一号)の成立(最終改正昭和24年6月1日)を契機として1946(昭和21)年2月には、国鉄労働組合総連合会が結成されていたが、最初の労働争議は、同年9 月に起こった、いわゆる 9.15 争議((国鉄総連は9月15日ゼネストを予定)とよばれるものであった。
これは、終戦後の未曾有の赤字に対処する経営の合理化の必要から生じた人員整理問題に端を発したものであるが、スト突入寸前に至り、運輸大臣の介入等により収拾した。
続いて翌1947(昭和22)年には、全官公庁労組のいわゆる2.1 ストが発生した。
これは、給与問題に端を発したものであり、これもまたゼネスト突入寸前に至り、マッカーサーの中止指令により中止された。しかしながら、この争議後も地域闘争、職場離脱等が各所で起こっていた。
1948(昭和23)年国家公務員法が施行された際、GHQは、マッカーサー書簡(同年7月付)を日本政府に送り、公務員の争議権を否認した。
それは、労働運動に対する政策という観点から、公共企業体としての国有鉄道の改編を指示したものであり、そこでは、国営企業の民主化及び現業部門の運営の能率向上等の理由から、鉄道現業部門を運輸省から切り離すべきであるという考え方が有力であった(※4)。
1949(昭和24)年6月、公共企業体としての日本国有鉄道の発足とともに公共企業体等労働関係法が施行され、国鉄労働組合(略称国労)は、この法律により規律されることになり、争議行為は禁止され、これに代わり調停、仲裁制度等が設けられることとなった。
このような状況を経て、上記7月の大規模人員整理は、組織的な争議を伴わず実施されたのであるが、この人員整理の進行中、 下山事件(1949年7月5日下山国鉄総裁変死事件)、三鷹事件(同年7月15日、三鷹駅構内での無人電車暴走事件)、松川事件(同年8月17日、松川での旅客列車脱線転覆事件)が続発している。
国鉄財政面では、軍需関係貨物の減少と石炭事情の悪化による輸送量の減少のため運賃収入は減収となる一方、インフレによる諸経費の増加、鉄道施設の戦災復旧のための多額の出費、さらに、これらの財源として多額の借入金を抱えたこと等から、昭和20年度には、創業以来初めて赤字を計上した。
しかも、赤字経営が長期化することが予想されたため、国鉄職員の整理と並行して、国鉄運賃を昭和20年度〜23年度にかけて4度改定し増収をはかった。
しかし、民生の安定・経済の復興に重要な役割を果たすことから、運賃水準をできる限り低水準に抑えたため、国鉄運賃は、物価の上昇に追随することが出来ず、国鉄財政は、引き続き物件費の高騰に悩まされることとなった。
その後、1950(昭和25)年にぼっ発した、朝鮮戦争に伴う特需景気により国内産業は活況を呈し、それに伴い、旅客・貨物輸出量とも増加したことなどから、国鉄財政は、昭和25年度及び昭和28年度の2年間は良かったもののこの2年間を例外として昭和20年代は、いずれの年度も赤字計上となった。
その後、国鉄財政は、昭和30年代こそ、高度成長期による輸出量の増大等に支えられて黒字経営が可能となったものの、40年代からは、再び構造的な赤字経営に落ち込むこととなった。
また、民営鉄道においても、朝鮮戦争後の資材の高騰と1950(昭和25)年のシャウプ勧告による税制の改正に伴う法人税等の引き上げ等により経営難に陥る中小民鉄が出てきた。
このため、1953(昭和28)年8月に地方鉄道軌道整備法(※5:「国鉄があった時代」のここ参照)が公布され、天然資源その他産業の振興上、特に重要な新線の建設の助成、赤字に悩む中小民営鉄道の救済をはからねばならない状況となっていた(※4参照)。
そのようなことから1949(昭和24)年に公共企業体(公社)として発足した日本国有鉄道(国鉄)の赤字解消のために再び改組が行われることとなった。
1986(昭和61)年11月に成立した国鉄改革関連8法に基づき、翌・1987(昭和62)年4月1日、国鉄は6つの旅客会社と1つの貨物会社のJRグループに分割・民営化された。この年は、1872(明治5)年日本に初めて鉄道が開業してから116年目にあたる。
このほか同時期に電電公社(現:NTT)や日本専売公社(現:JT)を含めた三公社の民営化は自由民主党によって進められたが、分割・民営化に現場で辣腕を振るったのは、当時運輸大臣であった三塚博であったといわれている。
最後の国鉄総裁杉となった杉浦喬也は、鉄道監督局国鉄部財政課長に就任の後、国鉄部長になったころ自民党の有力な運輸族であった三塚博らと親しくなったとされている。
この国鉄の分割民営化は、経営が破綻に瀕した国鉄という全国一元的な経営形態を解体・再編し、経営の効率化や長期債務処理、労使関係の正常化、鉄道事業の再生を図る「世紀の大手術」であった(※7:「運輸白書」の昭和61年度運輸白書:第2章:第2節 分割・民営化による国鉄事業再生への取組み 参照)。

国鉄最後の日の3月31日国鉄は6000円(子供は3,000円)で全国前線乗り放題というこの日かぎりの「謝恩フリー切符」を売り出し各列車は大混雑となった。各地でも記念行事が開かれ、東京駅では臨時列車「旅立ちJR」を一目見ようと鉄道ファンが殺到した。

上記の画像は国鉄最後の日の3月31日「旅立ちJR」を一目見ようと東京駅に殺到した鉄道ファン。画像は「朝日クロニクル週刊20世紀」1987年号より借用。

また、上掲のものは、2013年3月31日、早朝より神戸・三宮の駅で長い行列に並び、苦労して手に入れた私のコレクションの1つ「日本国有鉄道から西日本旅客鉄道ゆき」と記された1000円のオレンジカードである。1985(昭和60)年3月25日に、国鉄の関東圏の主要駅で販売が開始されたのち、全国で発売されたが今年・2013(平成25)年3月31日をもって発売を終了するとの発表があった(※8)。私は、発売駅の違うものを他に2種類持っているが、少しはプレミアが付くかな・・ヾ(´▽`;)ゝウヘヘ。

国鉄最後の日(汽笛オーケストラ)- YouTube
上掲の動画では、国鉄最後の日に、京都・梅小路機関車館でだと思うが、作曲家、指揮者である故山本 直純指揮による汽笛のオーケストラが聞ける。これはすごいのでぜひ見てほしい。

この国鉄改革をめぐる評価はさまざまである。
改革を推進した運輸省などは、次のような点を挙げて「大成功」だといっているようだ。
1、 国鉄時代は値上げの連続だった運賃が一部を除き民営化前の水準で維持されている。
2、 地域の実情にあったダイヤ設定、新規車両の投入、社員の接客態度の改善など、サービス内容が改善した。
3、 人員削減などの合理化により、生産性が向上した。
4、 労組のストが激減した。
しかし、仮に、これらを改革の「功(利点)」とすれば、その一方で、「負の遺産」も少なくはない。
1987(昭和62)年度当初、約37兆円にのぼった国鉄の長期債務は、約25.5兆円を国鉄清算事業団、残りは、新幹線保有機構が5.7兆円、JR各社が5.9兆円を引き継いだ。
同事業団は旧国鉄の土地や保有するJRの株式を売って借金返済にあてたが、返済の穴埋めのため借金を重ねた結果、債務は逆に1998(平成10)年度当初で約28兆円に膨らんだ。
政府は、同年10月に「日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律(債務等処理法)」(※9)を制定し、同年から60年間かけて返済する処理策を決めた。
そして、国鉄清算事業団は解散し、同事業団の業務は、日本鉄道建設公団(国鉄清算事業本部)に引き継がれ、このうち、年金等の負担費用である3.9兆円を日本鉄道建設公団が承継し、残りの24.1兆円の債務を国が、0.2兆円をJRが負担することとなったという。・・・、財源の大半は、公的資金、つまり、国民の負担とされたのだ(※7の平成8年度運輸白書の第1部 国鉄改革10年目に当たってや、※10参照)。
また、輸送需要の少なさなど構造的に経営基盤が弱体なまま出発した北海道四国九州

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