平成25(2013)年の今年、芭蕉、蕪村に続く江戸時代を代表する俳諧師の一人小林一茶の生誕250年を迎える。
一茶のことはこのブログで、2004年11月19日に小林一茶忌日として簡単に書いたことがあるのだが、今日は違った視点から改めて書くことにした。以前のブログはここを見てください。
「名月の御覧の通り屑家哉」(一茶)
冒頭掲載の画像は『古今俳人百句集』に描かれている小林一茶。画像は、NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第四巻文化編より借用した。文化15年(1818年)刊『古今俳人百句集』(甲二・米砂・呂律編)。
『古今俳人百句集』には、金令舎道彦(*A)が序。九十九房碓嶺(*B)が跋を書いている。熊谷の草原庵(碓嶺の庵)を訪問したとされる俳人91名、故人9名の句を肖像とともに収録したものだそうだ(*A、*B等古今俳人百句集』については、以下参考の※1:「旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地」の“一茶関連俳書『古今俳人百句集』”を参照)。
『古今俳人百句集』に掲載の一茶の句「名月の御覧の通り屑家哉」の「名月」は、季語で仲秋、天文であり、「屑家」は「屑屋」つまり、「屑」のようなぼろ家(や)という意味。この「御覧」は「月をご覧(見る)」と「ご覧(見る)通りの屑家」とが掛けられており、句意としては、「満月の見事な月を見てご覧。その月光の下の我が家は何とご覧の通りの屑のようなぼろ家であることか。」となるようである(※2参照)。
この句は『文化五年八月句日記』(※3)に初出、文化六年刊の幽嘯(ゆうしょう)編『繋橋(つなぎはし)』には『屑家哉』と改めて入集(※1のここ参照)、以後文化十年刊『古今俳人百句集』等に入集している、一茶の自信作の一つのようである。
小林一茶(本名:小林弥太郎)は、宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受けるが、3歳の時に生母を失い、その後祖母の死そして8歳で継母を迎える。
しかし、継母に馴染めず、安永6年(1777年)、15歳の時、江戸へ奉公に出る。以後10年間の消息は定かではないようだが、20歳頃、千葉県松戸馬橋の大川立砂(※1のここ参照)のもとに奉公していたとも伝えられている。
天明 7年(1787年) 25歳のころ、一茶は始め葛飾派の領袖、素丸に拾われ、家の執筆役も勤め(※1のここ参照)、また、小林竹阿(二六庵竹阿。参考※1のここも参照)に師事して俳諧を学び、苦労の末この頃には、「圯橋」の名を使用して俳壇にデビューしていたようだ。
天明 8年(1788年 ) 26歳の時、葛飾派の森田元夢(今日庵。※1のここ参照)に師事し、このころ「菊明」の名を使用。寛政2年(1790年)3月に竹阿が死去すると、改めて、一茶は素丸に入門したようだ。
寛政3年(1791年) 29歳の時、江戸に出て来てからはじめて故郷の柏原に帰っており、このときの帰郷の様子を『寛政三年紀行』(※1のここ参照)に著している)。
Wikipediaによれば、『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と自身が記しており、この頃から「一茶」を名乗るようになったようだ。
“自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから”との意味で「一茶」を名乗っているのだが、このころには江戸で若手俳人として少しは知られ始めていたが、生活そのものは、江戸周辺の葛飾、下総、上総の俳諧門人宅を回って飯と寝床を提供してもらい、帰りしなになにがしかの駄賃をもらう。それが多少たまると借家に帰るというような生活をしていたのであろう。
しかし、どうして、彼は、突然故郷へ帰ったのだろう。
少し当時の歴史的を調べてみると、一茶が故郷にかえった前年の寛政2年(1790年)には、江戸からの帰村を奨励する寛政の改革の一つ旧里帰農令が発令されている(※5:の796旧里帰農令1、797旧里帰農令2参照)。これは、当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙ったもの、つまり、天明の大飢饉 で荒廃した農村再建のために帰農を政策であった。
一茶の帰郷はこのことともかかわりがあるのかもしれない。一茶は、その翌年より、俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊し、寛政10年(1798年) 36歳のとき、 西国の旅を終えると、柏原に帰り、その後また、江戸へ戻っているが、江戸で一家を成すには至らなかったようだ。
享和元年(1801年)、39歳の時、帰省中に発病の父の看病をすることになったが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで死去。
この後、遺産分配をめぐり継母・義弟との対立が始まるが、この時の様子が『父の終焉日記』(※1のここも参照)にまとめられている。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続け、その後、一茶が故郷に永住するまで、10年以上にわたって、継母・義弟との財産争いが続き、遺産相続交渉のため江戸と故郷との往復を余儀なくされた。
冒頭に掲載の「名月の御覧の通り屑家哉」の句は、『文化五年八月句日記』(西暦1808年)(※3)に初出と言うので、文化4年(1807年)45歳の時、 父の7回忌法要のため帰郷するも、遺産相続の決着はいまだつかず,遺産相続で争っている中で詠まれたものと言うことになる。
自然美の粋である名月に、人間世界でドロドロ繰り広げられた遺産相続で得ようとしている家をぶっつけた句。こんな茅葺きの屑家を得るためにどうしてこんなに長年争っているのだろうかとの自嘲の思いも入っているのではないか。
江戸で俳諧の一家を成すことができなかった、一茶には、故郷の田地田畑、山林があてにできる唯一のもの。そし て何よりこの地は、おれの本当のおふくろや祖母や、そして親父が眠る、おれの 故郷であり、おれの血の中にも土に生きる農民の血は流れている。 そう簡単には捨てられないよ・・・との思いが強かったのだろう。
しかし、一茶は長男とはいえ、故郷を出たまま 、30年近くも漂白の身の上の男が、いきなり帰ってきて、財産を半分よこせと言っているのであり、その間、義母と弟が、家を守ってきた。
働き者であったらしい義弟により、家産は倍に増えていたらしいから、一茶の半分よこせは、虫のいい話であったとも言えなくはない。
複雑な思いではあったろうが、健康の衰えも加わり、文化9年(1812年)、一茶50歳の時に江戸を引き払い定住するつもりで帰郷する。そして、借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌文化10年(1813年)、亡父の13回忌を行い、この時、やっと、和解も成立し、父の遺産の半分を受け取ることになり、義母・義弟夫婦の住む家を二つに仕切って一方を自分の住処とした。
「これがまあ つひの栖か 雪五尺」
句意;五尺も降り積もった雪に埋もれたこのみすぼらしい家が、自分の生涯を終える最後の住まいとなるのか。何とわびしいことか。
以降、ふるさと柏原に定住することになったのが51歳の時であった。
故郷に腰をすえた一茶は、その翌・文化11年(1814年)52歳の時に、母方の縁者で24歳も年下のきく28歳と結婚している(※4参照)。
このきくとの間には、3男1女を儲けるが4人が何れも幼くして亡くなっている。特に最愛の長女さとを失ったショックは大きく、追悼録ともいうべき代表作『おらが春』に一茶は最後の精魂を傾けた(※6参照)。
その後の一茶には、菊の死(37歳で死亡)や度重なる病気、62歳で迎えた2番目の妻雪との半年での離婚、文政10年(1827年)柏原宿を襲った大火に遭い、母屋の消失など、不幸に次々襲われる。
そして、
「焼け土のほかりほかりや蚤(のみ)さわぐ」
句意:火事で焼けたあとの土が、ほかりほかり(オノマトペ=擬声語)とまだ熱い。そんな中で、蚤どもが騒ぎまわっているよ。(【季語:蚤】一茶に蚤の句は多い。参考※7:「長野郷土史研究会」の一茶の資料>一茶発句全集の夏の部・蚤参照)。
この句を遺して、3度目の妻やお(一茶64歳の時結婚)と同棲1年有余の文政10年(1827年)11月、中風の再発により焼け残りの土蔵の中でやおに看とられて65歳の生涯を終えた。
やをは気立てのよい女で、2歳の子どもを一人連れて一茶の家の者になると、よく働き、一茶の面倒もよくみてくれた。また、2番目の妻雪と違って痛風病みのおじいさんである一茶と、一つ蒲団に寝ることも嫌がらなかったという。そんな、やをは、一茶の死後土蔵の中で遺腹のやた女を妊娠。やた女によって血脈を後世に伝え継がれているという。
残された句日記によれば、きくと結婚後連日連夜の交合(性交。交接。媾合とも書く。)に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかったという。
ただ一茶の場合は永井荷風の日記『断腸亭日乗』のように、あちこちの色街を排徊した話ではなく、3人の妻に限られているのが特徴。連日連夜の交合の記録は3ヵ所あるが、文化13年の第1回は、子を得ようとするものだったが・・・。
文化13年(1816年)、一茶54歳の時、4月14日に菊が初めての子(男子)を生むが虚弱児であった。一茶は長沼(長野市)でその報せに接して、15日に善光寺などにお参りしてわが子の無事を祈願してもらうなどし、28日に妻の実家に妻子を見舞い、千太郎と名付けた。
5月11日には、危篤の報せを受けて未明に駆け付けたが間に合わず、生後わずかに28日で、父の看取りも受けず死んでしまった。ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ、と揺すってみる。
「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」
その後、千太郎にかわる次の子が欲しいという願望が一茶の胸にふつふつとわき上がったのだろう。
しかし、菊は、出産と産後の疲労、さらには、わが子の死による悲嘆。家や田畑・山林を相続した一茶は、家事や農作業が忙しくても、ただ俳句をつくるだけで農事は一切しない。
田畑の耕作はすべて妻と小作に任せっきりにしていた。菊は一茶と口論したあげく、日頃の鬱憤を爆発させ、家をとび出した。
それから、数日後、菊が帰ってきてから仲直りをし、壁一つ隣り合わせた義弟の仙六一家を気にもせず、54歳の男と30歳の女は、まるで20歳の男女のように賑賑しく睦みあったようだ。ちなみに、この8月の日記に書かれている交合回数がどのようなものか見てみよう(詳しくは、参考※8:「生活習慣病を予防する食生活」の雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力−小林一茶の交合記録を参照)。
八日 晴 菊女帰ル 夜五交合
十二日 晴 夜三交
十五日 晴 婦夫月見 三交
十六日 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七日 晴 墓詣 夜三交(母の命日)
十八日 晴 夜三交
廿日 晴 三交
廿一日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯四交(父の命日)
この「交」とあるのが交合回数。
13日、14日に交わりはないが、この日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。
15日、夫婦で月見をしてからの交合ではなく昼3交し、夜、夫婦で月見をしている。
21日などは、隣村の牟礼で雨乞の祈祷、夜どおし大雷、壁ひとつ隣の家の義弟仙六方で亡父の供養をし、朝食を馳走になったあと、白昼4交に及んでいる。
この日記で「夜三交」とただの「三交」を区別しているが、単に「三交」とあるのは、夜でもなく、未明でも早朝でもなく、昼のようだ。誰に遠慮することもない夫婦二人きりの暮らし、連日連夜、朝・昼・夜の区別ない交合である。
オオナルコユリやナルコユリ(※9参照)の根茎を乾燥した強壮薬で黄精(おうせい)と云うものがあり、一茶は、交合に備えてこのナルコユリを愛用していたらしく、文化14年(1817年)12月3日の日記には、「黄精酒に漬ける、11日黄精食い始める」・・・とも書いている。
とにかく、人生50年と言われた当時にあって、54歳と云えばもう充分な年とも言えるが、これは、若い妻をもった初老の男のあせりなのか、あるいは子種ほしさの切ない戦いだったのか。それとも、一茶の色好みによるものかは知らないが、朝・昼・夜の区別なしの大奮闘は、私などには常識を超えた世界であり、その絶倫というか逞しさには、脱帽の限りである。
しかし、最近は、16歳年下、22歳女優との熱愛が発覚した浅野忠信(※10参照)、56歳にして24歳の女子大生と再婚するラサール石井の32歳差、そして68歳で23歳の女性と結婚した加藤茶の45歳年下をはじめ、堺正章の22歳年下との再々婚と、芸能界の「年の差婚」が続き、世間を驚かせている。
このことについて夫婦・家族問題コンサルタントの池内ひろ美は、この年の差カップルには「セックス回数自慢」が深く関わっていると話しているそうだ。
なぜ彼らが性交回数まで明らかにするのか、・・・それには、理由があり、年齢を重ねていてもまだ子どもを作ることが可能であることを誇りたいオスとしての本能と、若い者に劣っていないという自負がそこにあるという(※11)。
そうだとしたら一茶も同じ気持ちだった…と言えるのかも知らないが、オスとしての本能…という考え方には疑問もある(※12)。ただ、まだまだ元気があるぞと自慢したいだけか、芸能人特有の照れ隠しだろう。自慢している割には、一茶などと比べるとその交合回数などはスケールが小さすぎる。
年配の芸能人などが随分と年下の女性と結婚するなど、「年の差婚」が増えているのは、逆に言えば、自分の父親と変わらない年齢の男性と結婚することに抵抗を感じない女性が増えているということでもあるらしい。
インターネット調査会社の株式会社マクロミルの2011年8月調査(※13参照)によると、結婚対象となる相手の年齢は、36.5%の女性が「10歳上までの男性」と回答し、最多となったが、「15歳年上まで」が12.5%、「20〜30歳上まで」が6.0%、「何歳上でも可」が8.5%で、これらを合わせると「年上の男性と結婚してもいい」と考える女性は、63.5%にも及ぶという。
晩婚化・未婚化が叫ばれるなか、「年の差婚化」が新たなキーワードとして浮上してきた現在の日本では、女性は同世代ではなく、ひと回り年齢が離れているくらいの男性に魅力を感じる傾向が進んでいるようだ。
近年日本は晩婚化の進展に併せて、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)も上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%となっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという(※14;「平成24年版厚生労働白書」の第1部社会保障を考える:第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の 生活保障を参照)。
このように、若い世代が結婚に消極的であるのならば、日本の将来のためにも、「もう年だから・・」などと悲しいことを言わずに、元気な人は積極的に若い女性と結婚、一茶に負けずに頑張ってほしいですね〜。いや、これは年配の女性も同じですよ・・・。
ちょっと回り道が多かったが元へ戻る。
江戸時代の後期、芭蕉や与謝蕪村が花鳥風月の美しさを多く詠むなど風流を愛でるのに対して、一茶は農業の厳しさや貧しい生活などを写実的に表現する俳句を多く作り、次第に生活派俳人としての個性を鮮明にしてきたといわれている。
『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』を始め多くの書物を残しているが、これらが発行されたのはすべて没後のことでり、生涯に詠んだ句は20000句を超えるといわれる。
しかし、一茶ほど世間のイメージと実体が違う人はいないのではないか。かっては、にこにこ顔のやさしいおじさんで、「我ときて遊べや親のない雀」や、同じころの「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」などの句に見られるように、継子育ちの淋しい生い立ち、それでいて童心を失わぬ人、というイメージであった。
それが、そのあと一転して、不遇な生活のうちに、つむじ曲がりなひねくれ者で、赤裸々な私生活もあけすけに書く野人となっていたことを知って、私なども驚いているところである。
もう5年ほど前だろうか、ケーブルテレビのチャンネルNECOで亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」(1941年東宝文化映画部製作※15参照)を、見たことがある。
わずか30分足らずの小品で、貧しい信濃の風景に小林一茶の風刺に富んだ俳句を重ねて批判的に描いた文化映画であった。亀井の優れた演出で、キネマ旬報非劇映画(ここ参照参照)部門のベストテン第6位に選ばれた。
上掲の画像が同映画のワンカットである。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1941年号より借用した。この映画は、当初は、フィルムが現存しない幻の第一部「伊那節」、未完の第三部「町と農村」と共に「信濃風土記」三部作の第2作として作られたものである。
文化映画は、戦時下の映画製作の一環としてニュース映画と並んで前年から6大都市を中心に強制上映された。「国民精神の涵養(※16も参照)または、国民知能の啓培」のためである。つまり、戦意昂揚が目的であった。
そんななか、戦前のファシズム体制に抵抗した映画人 として、広く知られている亀井は、このような戦意昂揚の目的を逸脱し、2年前の映画「戦ふ兵隊」(1939年)で敢えて疲れた兵隊を描き軍部から厭戦的だと批判され上映禁止となった。
この「信濃風土記より 小林一茶」は当初、長野県からの依頼を受けて信濃の「観光宣伝映画」として企画されていたものであるが、観光映画ではなく、一茶を農村出の詩人として扱い、彼の句を用いた効果的な編集によって、厳しい農民の生活史を描いた半ば農民映画として描かれている。
そのため、この映画は、文部省により文化映画の認定をはずされた。そして、亀井自身は本作の発表後、治安維持法違反被疑で検挙され1年近くの獄中生活を送った後、映画法により監督資格を剥奪されることになる。
映画の内容は、以下参考に記載の※17:「CineMagaziNet!」のno.15 フィオードロワ・アナスタシア『「旅する」叙情詩人』で詳しく解析されているので見てもらえばよいが、その中ら、一部引用させてもらう。
亀井自身は、本作品では「一茶を通して、郷土の人々の類型的な心を語ろうとした」と述べているようだが、亀井の発言には、映画的テクストとの内実と食い違う部分があり、作中における一茶は、現代を生きる信濃農民の典型「信濃の住民」なのではなく、むしろ彼らとは正反対の人生を送った人物として表象されている。
つまり、地元を遠く離れて人生の大半を旅しながら俳句を詠んで過ごし、50歳を過ぎたときに、初めて信濃に戻ってきた一茶は、農民コミュニティーの一員としてではなく、それに馴染めないでいる不可解な「他者」として描かれているのである。
作中における一茶の疎外感は、永住を決意して故郷の柏原へ帰てきたときに詠んだ先に挙げた句「これがまあ終(つい)のすみかか雪五尺」や、一茶本人の目線を通して強調される。
映画では、一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。
亀井は、一茶とその子孫の外見的な類似をほのめかした後、それがあくまで表面的なものであることを明らかにする。
パイプを口にくわえた子孫の顔のクロースアップが表示され、「俺は一茶さんの子孫だが、俺は俳句は作らないが、米作る」という台詞が流れる。
この言葉を一茶の子孫に言わせることで、亀井は、一茶とその他の農民の間に存在する深い溝を浮き彫りにする。
一茶の血を受け継いだ子孫の関心が向けられているのは、詩作ではなく稲作である。
作中において、一茶は自らの俳句を通して農民に語りかけるが、農民は聞く耳と、見る目を持たない。善光寺で必死に祈る女性たちや、一茶の子孫のクロースアップに見られるように、農民たちの眼は、涙で曇っているか、さらに言えばカメラに向けられてさえいない。
また、農民たちは作中において、自らの意思を表明することが一度も無く、農民の心を詠うのは、常に「継子一茶」である。
一茶の子孫は、「俳句は作らない」と発言しているが、その際、彼はパイプをくわえており、その口元は動いていない。・・・農民(大衆)と「他者」とは永遠に交わらない。
「もたいなや 昼寝して聞く 田植唄」
「春がすみ 鍬とらぬ身の もったいな」
一茶自身も農民に生まれながら、農業に従事しないということに引け目を感じていたようだ。田植え唄が風に乗って聞こえて来ると一茶の心は落ち着かない。百姓の自分が農作業もせずに昼寝とは・・ばちが当たる!おちおち昼寝もしていられない。農民の出でありながら鍬を持って農作業もせずに、春がすみの俳句などを詠んでいる。
そんな自分のことを「もったいないことをしている」と感じているわけである。そんな思いからか、一茶の句には農家の暮らしを題材にした俳句が多くある。自ら鍬(くわ)を持たない一茶は、農業を応援する気持ちを俳句で表現するしかなかったのだろう。
一茶最晩年の句に次の一句がある。
「花の影寝まじ未来が恐しき」(『希杖本一茶句集』【希杖本】)
文政10年(1827年)閏六月一日、柏原の大火で15年前義弟仙六と和解して得た家を失い、門弟の家を転々とした後、一茶は土蔵暮らしを強いられる。
その年の11月9日その土蔵で病没。58歳のとき、中風を発し、62歳の時再発しているから、3度発作が起きたのかもしれない。したがって芭蕉や蕪村のように、辞世句はない。
掲句には「耕(たがやさ)ずして喰(くら)ひ織(おら)ずして着る体(てい)たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」と前書がある。弟の仙六をはじめ故郷の農民に対して、一茶は生涯、劣等感をもっていたようだ。
一句の「花の影」は西行の辞世句とも言われる「願はくは花の下にて春死なむ」を踏まえていると言われている。
これよりも前、文化2年(1805年)、一茶43歳の時 既に、「耕さぬ罪もいくばく年の暮」(『文化句帖』文化2年12月)と読み、文化4年(1807年)、一茶は45歳の時には、「鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴」の句を詠み、この掲句には、「作らずして喰ひ、織らずして着る身程の、行先おそろしく」との前書きがされている。一茶は農民でありながら、鍬も持たず俳句を読んでいる生活に相当早くから思い悩んでいたようだ。
さてこのブログは、これで終えようと思ったのだが、4月9日の朝日新聞朝刊に、「ぷかり浮かぶ愛煙家一茶」のタイトルで、今年6月(旧暦5月5日)で誕生日を迎える小林一茶が、たばこ好きだったことがうかがえる手紙が発見された。・・・との記事があった。以下参照。
一茶、名句の陰に紫煙あり 愛煙家ぶり手紙に
その中に、弟子の村松春甫が描いたとされる小林一茶の肖像画(一茶が60歳の頃らしい)が掲載されていた。
●それが上掲の向かって左の画像であり、長沼の門人、村松春甫が描いた「長沼連衆画象寄合書」の一茶像の膝元にはたばこ盆があり、「句会にはたばこが欠かせなかったこともうかがえる」と書かれていた。ちなみに右は、1日に門人の竜卜宅に泊まり、3日に長沼に行ったところで煙草入れのない鬼気づいた一茶が杉丸の所で忘れたと考え、竜卜に出した手紙と考えられているものの読み下し分である。
この村松春甫(※1のここも参照)が描いた小林一茶の肖像画のことは、このブログで、前に、亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」の説明の中で、同映画では、「一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。」・・・と書いた。
この映画でいっているところの画像は、以下参考に記載の※18:「一茶に学ぶ会(一茶研究会)」の一茶と俳句の研究のページに掲載されている画像と同じのようだ(ここ参照)。
朝日新聞に掲載されている画像には、春甫の落款らしいものがあるが、※18の一茶と俳句の研究のページに掲載の画象には写しと書かれている。肖像画としては落款のある方が本物のように思えるのだが、1941年製作の映画には、映しと書かれた方の画像らしきものが使われているのだが、何故なのだろう?これには、何か意味があるのだろうか?
新聞に書かれている通り、一茶は煙草が好きらしく、たばこの句を多く詠んでいる。参考※7:「長野郷土史研究会」の「一 茶 発 句 全 集」では季題ごとに区が整理され掲載されており、そこにたばこの句も掲載されている。ただし、たばこは季題ではないのでちょっと探し辛いが・・・。
参考:
※1:旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/1sa00.html
※2:(一茶俳額・俳句鑑賞 五〇「 名月の御覧の通り屑家哉」 ...(Adobe PDF)
http://www012.upp.so-net.ne.jp/yahantei/issa50-61.PDF
※3:一茶の歩んだ道: 文化句帖五年六月名月ご覧の如き屑屋哉
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2007/11/post_a3f2.html
※4:一茶ゆかりの里 一茶館・一茶の歴史
http://www.kobayashi-issa.jp/issa-history
※5:日本史史料集>近世(新史料編)>田沼時代〜寛政の改革
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/37ndx.htm
※6:一茶の「おらが春」のさわり
http://amanojaku.a.la9.jp/issa.htm>
※7:長野郷土史研究会
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/
※8:生活習慣病を予防する食生活
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html
※9:イー薬草・ドット・コム・オオナルコユリ
http://www.e-yakusou.com/sou02/soumm254.htm
※10:浅野忠信&仲里依紗、熱愛16歳差! (1/2ページ) - 芸能 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/geino/news/120203/gna1202030507001-n1.htm
※11:年の差婚の男たちが、性交回数を公言するワケ - AERA - 朝日新聞デジタル
http://dot.asahi.com/life/lifestyle/2012092600761.html
※12:「男の浮気はオスの本能」は正しいか?(前編) - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n45632
※13:‘年の差婚’に関する調査(2011年8月2日マクロミル)
http://chosa.itmedia.co.jp/categories/investment/9361
※14;平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える−厚生労働省(Adobe PDF)
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
..※15:亀井文夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0071700.htm
※16:【週報56】 「時局と国民精神作興」 文部省
http://binder.gozaru.jp/056-jikyoku.htm
※17:CineMagaziNet!
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN16/index-2012.html
※18:一茶に学ぶ会(一茶研究会)
http://issafan.web.fc2.com/index.html
平成22年国勢調査 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/
日本俳句研究会:俳人列伝;小林一茶
http://jphaiku.jp/haizinn/issa.html
Wikipedia - 小林一茶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6
一茶のことはこのブログで、2004年11月19日に小林一茶忌日として簡単に書いたことがあるのだが、今日は違った視点から改めて書くことにした。以前のブログはここを見てください。
「名月の御覧の通り屑家哉」(一茶)
冒頭掲載の画像は『古今俳人百句集』に描かれている小林一茶。画像は、NHKデータ情報部編『ヴィジュアル百科江戸事情』第四巻文化編より借用した。文化15年(1818年)刊『古今俳人百句集』(甲二・米砂・呂律編)。
『古今俳人百句集』には、金令舎道彦(*A)が序。九十九房碓嶺(*B)が跋を書いている。熊谷の草原庵(碓嶺の庵)を訪問したとされる俳人91名、故人9名の句を肖像とともに収録したものだそうだ(*A、*B等古今俳人百句集』については、以下参考の※1:「旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地」の“一茶関連俳書『古今俳人百句集』”を参照)。
『古今俳人百句集』に掲載の一茶の句「名月の御覧の通り屑家哉」の「名月」は、季語で仲秋、天文であり、「屑家」は「屑屋」つまり、「屑」のようなぼろ家(や)という意味。この「御覧」は「月をご覧(見る)」と「ご覧(見る)通りの屑家」とが掛けられており、句意としては、「満月の見事な月を見てご覧。その月光の下の我が家は何とご覧の通りの屑のようなぼろ家であることか。」となるようである(※2参照)。
この句は『文化五年八月句日記』(※3)に初出、文化六年刊の幽嘯(ゆうしょう)編『繋橋(つなぎはし)』には『屑家哉』と改めて入集(※1のここ参照)、以後文化十年刊『古今俳人百句集』等に入集している、一茶の自信作の一つのようである。
小林一茶(本名:小林弥太郎)は、宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受けるが、3歳の時に生母を失い、その後祖母の死そして8歳で継母を迎える。
しかし、継母に馴染めず、安永6年(1777年)、15歳の時、江戸へ奉公に出る。以後10年間の消息は定かではないようだが、20歳頃、千葉県松戸馬橋の大川立砂(※1のここ参照)のもとに奉公していたとも伝えられている。
天明 7年(1787年) 25歳のころ、一茶は始め葛飾派の領袖、素丸に拾われ、家の執筆役も勤め(※1のここ参照)、また、小林竹阿(二六庵竹阿。参考※1のここも参照)に師事して俳諧を学び、苦労の末この頃には、「圯橋」の名を使用して俳壇にデビューしていたようだ。
天明 8年(1788年 ) 26歳の時、葛飾派の森田元夢(今日庵。※1のここ参照)に師事し、このころ「菊明」の名を使用。寛政2年(1790年)3月に竹阿が死去すると、改めて、一茶は素丸に入門したようだ。
寛政3年(1791年) 29歳の時、江戸に出て来てからはじめて故郷の柏原に帰っており、このときの帰郷の様子を『寛政三年紀行』(※1のここ参照)に著している)。
Wikipediaによれば、『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と自身が記しており、この頃から「一茶」を名乗るようになったようだ。
“自分はさすらいの身で、茶の泡のように消えやすい者だから”との意味で「一茶」を名乗っているのだが、このころには江戸で若手俳人として少しは知られ始めていたが、生活そのものは、江戸周辺の葛飾、下総、上総の俳諧門人宅を回って飯と寝床を提供してもらい、帰りしなになにがしかの駄賃をもらう。それが多少たまると借家に帰るというような生活をしていたのであろう。
しかし、どうして、彼は、突然故郷へ帰ったのだろう。
少し当時の歴史的を調べてみると、一茶が故郷にかえった前年の寛政2年(1790年)には、江戸からの帰村を奨励する寛政の改革の一つ旧里帰農令が発令されている(※5:の796旧里帰農令1、797旧里帰農令2参照)。これは、当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙ったもの、つまり、天明の大飢饉 で荒廃した農村再建のために帰農を政策であった。
一茶の帰郷はこのことともかかわりがあるのかもしれない。一茶は、その翌年より、俳諧の修行のため近畿・四国・九州を歴遊し、寛政10年(1798年) 36歳のとき、 西国の旅を終えると、柏原に帰り、その後また、江戸へ戻っているが、江戸で一家を成すには至らなかったようだ。
享和元年(1801年)、39歳の時、帰省中に発病の父の看病をすることになったが、父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで死去。
この後、遺産分配をめぐり継母・義弟との対立が始まるが、この時の様子が『父の終焉日記』(※1のここも参照)にまとめられている。
一茶は再び江戸に戻り俳諧の宗匠を務めつつ遺産相続権を主張し続け、その後、一茶が故郷に永住するまで、10年以上にわたって、継母・義弟との財産争いが続き、遺産相続交渉のため江戸と故郷との往復を余儀なくされた。
冒頭に掲載の「名月の御覧の通り屑家哉」の句は、『文化五年八月句日記』(西暦1808年)(※3)に初出と言うので、文化4年(1807年)45歳の時、 父の7回忌法要のため帰郷するも、遺産相続の決着はいまだつかず,遺産相続で争っている中で詠まれたものと言うことになる。
自然美の粋である名月に、人間世界でドロドロ繰り広げられた遺産相続で得ようとしている家をぶっつけた句。こんな茅葺きの屑家を得るためにどうしてこんなに長年争っているのだろうかとの自嘲の思いも入っているのではないか。
江戸で俳諧の一家を成すことができなかった、一茶には、故郷の田地田畑、山林があてにできる唯一のもの。そし て何よりこの地は、おれの本当のおふくろや祖母や、そして親父が眠る、おれの 故郷であり、おれの血の中にも土に生きる農民の血は流れている。 そう簡単には捨てられないよ・・・との思いが強かったのだろう。
しかし、一茶は長男とはいえ、故郷を出たまま 、30年近くも漂白の身の上の男が、いきなり帰ってきて、財産を半分よこせと言っているのであり、その間、義母と弟が、家を守ってきた。
働き者であったらしい義弟により、家産は倍に増えていたらしいから、一茶の半分よこせは、虫のいい話であったとも言えなくはない。
複雑な思いではあったろうが、健康の衰えも加わり、文化9年(1812年)、一茶50歳の時に江戸を引き払い定住するつもりで帰郷する。そして、借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌文化10年(1813年)、亡父の13回忌を行い、この時、やっと、和解も成立し、父の遺産の半分を受け取ることになり、義母・義弟夫婦の住む家を二つに仕切って一方を自分の住処とした。
「これがまあ つひの栖か 雪五尺」
句意;五尺も降り積もった雪に埋もれたこのみすぼらしい家が、自分の生涯を終える最後の住まいとなるのか。何とわびしいことか。
以降、ふるさと柏原に定住することになったのが51歳の時であった。
故郷に腰をすえた一茶は、その翌・文化11年(1814年)52歳の時に、母方の縁者で24歳も年下のきく28歳と結婚している(※4参照)。
このきくとの間には、3男1女を儲けるが4人が何れも幼くして亡くなっている。特に最愛の長女さとを失ったショックは大きく、追悼録ともいうべき代表作『おらが春』に一茶は最後の精魂を傾けた(※6参照)。
その後の一茶には、菊の死(37歳で死亡)や度重なる病気、62歳で迎えた2番目の妻雪との半年での離婚、文政10年(1827年)柏原宿を襲った大火に遭い、母屋の消失など、不幸に次々襲われる。
そして、
「焼け土のほかりほかりや蚤(のみ)さわぐ」
句意:火事で焼けたあとの土が、ほかりほかり(オノマトペ=擬声語)とまだ熱い。そんな中で、蚤どもが騒ぎまわっているよ。(【季語:蚤】一茶に蚤の句は多い。参考※7:「長野郷土史研究会」の一茶の資料>一茶発句全集の夏の部・蚤参照)。
この句を遺して、3度目の妻やお(一茶64歳の時結婚)と同棲1年有余の文政10年(1827年)11月、中風の再発により焼け残りの土蔵の中でやおに看とられて65歳の生涯を終えた。
やをは気立てのよい女で、2歳の子どもを一人連れて一茶の家の者になると、よく働き、一茶の面倒もよくみてくれた。また、2番目の妻雪と違って痛風病みのおじいさんである一茶と、一つ蒲団に寝ることも嫌がらなかったという。そんな、やをは、一茶の死後土蔵の中で遺腹のやた女を妊娠。やた女によって血脈を後世に伝え継がれているという。
残された句日記によれば、きくと結婚後連日連夜の交合(性交。交接。媾合とも書く。)に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり、63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかったという。
ただ一茶の場合は永井荷風の日記『断腸亭日乗』のように、あちこちの色街を排徊した話ではなく、3人の妻に限られているのが特徴。連日連夜の交合の記録は3ヵ所あるが、文化13年の第1回は、子を得ようとするものだったが・・・。
文化13年(1816年)、一茶54歳の時、4月14日に菊が初めての子(男子)を生むが虚弱児であった。一茶は長沼(長野市)でその報せに接して、15日に善光寺などにお参りしてわが子の無事を祈願してもらうなどし、28日に妻の実家に妻子を見舞い、千太郎と名付けた。
5月11日には、危篤の報せを受けて未明に駆け付けたが間に合わず、生後わずかに28日で、父の看取りも受けず死んでしまった。ネブッチョ仏(寝釈迦)のように、白い帷子(かたびら、死に装束)に包まれて、小さな眼をとじて冷たくなっている。せめてもう一度、眼をあけてくれ、と揺すってみる。
「時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ」
その後、千太郎にかわる次の子が欲しいという願望が一茶の胸にふつふつとわき上がったのだろう。
しかし、菊は、出産と産後の疲労、さらには、わが子の死による悲嘆。家や田畑・山林を相続した一茶は、家事や農作業が忙しくても、ただ俳句をつくるだけで農事は一切しない。
田畑の耕作はすべて妻と小作に任せっきりにしていた。菊は一茶と口論したあげく、日頃の鬱憤を爆発させ、家をとび出した。
それから、数日後、菊が帰ってきてから仲直りをし、壁一つ隣り合わせた義弟の仙六一家を気にもせず、54歳の男と30歳の女は、まるで20歳の男女のように賑賑しく睦みあったようだ。ちなみに、この8月の日記に書かれている交合回数がどのようなものか見てみよう(詳しくは、参考※8:「生活習慣病を予防する食生活」の雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力−小林一茶の交合記録を参照)。
八日 晴 菊女帰ル 夜五交合
十二日 晴 夜三交
十五日 晴 婦夫月見 三交
十六日 晴 白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
十七日 晴 墓詣 夜三交(母の命日)
十八日 晴 夜三交
廿日 晴 三交
廿一日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯四交(父の命日)
この「交」とあるのが交合回数。
13日、14日に交わりはないが、この日は門弟回りをしていて一茶は家を空けていた。
15日、夫婦で月見をしてからの交合ではなく昼3交し、夜、夫婦で月見をしている。
21日などは、隣村の牟礼で雨乞の祈祷、夜どおし大雷、壁ひとつ隣の家の義弟仙六方で亡父の供養をし、朝食を馳走になったあと、白昼4交に及んでいる。
この日記で「夜三交」とただの「三交」を区別しているが、単に「三交」とあるのは、夜でもなく、未明でも早朝でもなく、昼のようだ。誰に遠慮することもない夫婦二人きりの暮らし、連日連夜、朝・昼・夜の区別ない交合である。
オオナルコユリやナルコユリ(※9参照)の根茎を乾燥した強壮薬で黄精(おうせい)と云うものがあり、一茶は、交合に備えてこのナルコユリを愛用していたらしく、文化14年(1817年)12月3日の日記には、「黄精酒に漬ける、11日黄精食い始める」・・・とも書いている。
とにかく、人生50年と言われた当時にあって、54歳と云えばもう充分な年とも言えるが、これは、若い妻をもった初老の男のあせりなのか、あるいは子種ほしさの切ない戦いだったのか。それとも、一茶の色好みによるものかは知らないが、朝・昼・夜の区別なしの大奮闘は、私などには常識を超えた世界であり、その絶倫というか逞しさには、脱帽の限りである。
しかし、最近は、16歳年下、22歳女優との熱愛が発覚した浅野忠信(※10参照)、56歳にして24歳の女子大生と再婚するラサール石井の32歳差、そして68歳で23歳の女性と結婚した加藤茶の45歳年下をはじめ、堺正章の22歳年下との再々婚と、芸能界の「年の差婚」が続き、世間を驚かせている。
このことについて夫婦・家族問題コンサルタントの池内ひろ美は、この年の差カップルには「セックス回数自慢」が深く関わっていると話しているそうだ。
なぜ彼らが性交回数まで明らかにするのか、・・・それには、理由があり、年齢を重ねていてもまだ子どもを作ることが可能であることを誇りたいオスとしての本能と、若い者に劣っていないという自負がそこにあるという(※11)。
そうだとしたら一茶も同じ気持ちだった…と言えるのかも知らないが、オスとしての本能…という考え方には疑問もある(※12)。ただ、まだまだ元気があるぞと自慢したいだけか、芸能人特有の照れ隠しだろう。自慢している割には、一茶などと比べるとその交合回数などはスケールが小さすぎる。
年配の芸能人などが随分と年下の女性と結婚するなど、「年の差婚」が増えているのは、逆に言えば、自分の父親と変わらない年齢の男性と結婚することに抵抗を感じない女性が増えているということでもあるらしい。
インターネット調査会社の株式会社マクロミルの2011年8月調査(※13参照)によると、結婚対象となる相手の年齢は、36.5%の女性が「10歳上までの男性」と回答し、最多となったが、「15歳年上まで」が12.5%、「20〜30歳上まで」が6.0%、「何歳上でも可」が8.5%で、これらを合わせると「年上の男性と結婚してもいい」と考える女性は、63.5%にも及ぶという。
晩婚化・未婚化が叫ばれるなか、「年の差婚化」が新たなキーワードとして浮上してきた現在の日本では、女性は同世代ではなく、ひと回り年齢が離れているくらいの男性に魅力を感じる傾向が進んでいるようだ。
近年日本は晩婚化の進展に併せて、生涯未婚率(50歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)も上昇しており、2010(平成22)年には、男性で20.1%、女性でも10.6%となっており、今後も、男性の出生数が女性より多いことなどもあり、特に男性の生涯未婚率が上昇し、2030(平成42)年には、およそ男性の10人のうち3人、女性の10人のうち2人が生涯未婚であると予測されているという(※14;「平成24年版厚生労働白書」の第1部社会保障を考える:第6章 日本社会の直面する変化や課題と今後の 生活保障を参照)。
このように、若い世代が結婚に消極的であるのならば、日本の将来のためにも、「もう年だから・・」などと悲しいことを言わずに、元気な人は積極的に若い女性と結婚、一茶に負けずに頑張ってほしいですね〜。いや、これは年配の女性も同じですよ・・・。
ちょっと回り道が多かったが元へ戻る。
江戸時代の後期、芭蕉や与謝蕪村が花鳥風月の美しさを多く詠むなど風流を愛でるのに対して、一茶は農業の厳しさや貧しい生活などを写実的に表現する俳句を多く作り、次第に生活派俳人としての個性を鮮明にしてきたといわれている。
『おらが春』『七番日記』『父の終焉日記』を始め多くの書物を残しているが、これらが発行されたのはすべて没後のことでり、生涯に詠んだ句は20000句を超えるといわれる。
しかし、一茶ほど世間のイメージと実体が違う人はいないのではないか。かっては、にこにこ顔のやさしいおじさんで、「我ときて遊べや親のない雀」や、同じころの「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」などの句に見られるように、継子育ちの淋しい生い立ち、それでいて童心を失わぬ人、というイメージであった。
それが、そのあと一転して、不遇な生活のうちに、つむじ曲がりなひねくれ者で、赤裸々な私生活もあけすけに書く野人となっていたことを知って、私なども驚いているところである。
もう5年ほど前だろうか、ケーブルテレビのチャンネルNECOで亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」(1941年東宝文化映画部製作※15参照)を、見たことがある。
わずか30分足らずの小品で、貧しい信濃の風景に小林一茶の風刺に富んだ俳句を重ねて批判的に描いた文化映画であった。亀井の優れた演出で、キネマ旬報非劇映画(ここ参照参照)部門のベストテン第6位に選ばれた。
上掲の画像が同映画のワンカットである。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1941年号より借用した。この映画は、当初は、フィルムが現存しない幻の第一部「伊那節」、未完の第三部「町と農村」と共に「信濃風土記」三部作の第2作として作られたものである。
文化映画は、戦時下の映画製作の一環としてニュース映画と並んで前年から6大都市を中心に強制上映された。「国民精神の涵養(※16も参照)または、国民知能の啓培」のためである。つまり、戦意昂揚が目的であった。
そんななか、戦前のファシズム体制に抵抗した映画人 として、広く知られている亀井は、このような戦意昂揚の目的を逸脱し、2年前の映画「戦ふ兵隊」(1939年)で敢えて疲れた兵隊を描き軍部から厭戦的だと批判され上映禁止となった。
この「信濃風土記より 小林一茶」は当初、長野県からの依頼を受けて信濃の「観光宣伝映画」として企画されていたものであるが、観光映画ではなく、一茶を農村出の詩人として扱い、彼の句を用いた効果的な編集によって、厳しい農民の生活史を描いた半ば農民映画として描かれている。
そのため、この映画は、文部省により文化映画の認定をはずされた。そして、亀井自身は本作の発表後、治安維持法違反被疑で検挙され1年近くの獄中生活を送った後、映画法により監督資格を剥奪されることになる。
映画の内容は、以下参考に記載の※17:「CineMagaziNet!」のno.15 フィオードロワ・アナスタシア『「旅する」叙情詩人』で詳しく解析されているので見てもらえばよいが、その中ら、一部引用させてもらう。
亀井自身は、本作品では「一茶を通して、郷土の人々の類型的な心を語ろうとした」と述べているようだが、亀井の発言には、映画的テクストとの内実と食い違う部分があり、作中における一茶は、現代を生きる信濃農民の典型「信濃の住民」なのではなく、むしろ彼らとは正反対の人生を送った人物として表象されている。
つまり、地元を遠く離れて人生の大半を旅しながら俳句を詠んで過ごし、50歳を過ぎたときに、初めて信濃に戻ってきた一茶は、農民コミュニティーの一員としてではなく、それに馴染めないでいる不可解な「他者」として描かれているのである。
作中における一茶の疎外感は、永住を決意して故郷の柏原へ帰てきたときに詠んだ先に挙げた句「これがまあ終(つい)のすみかか雪五尺」や、一茶本人の目線を通して強調される。
映画では、一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。
亀井は、一茶とその子孫の外見的な類似をほのめかした後、それがあくまで表面的なものであることを明らかにする。
パイプを口にくわえた子孫の顔のクロースアップが表示され、「俺は一茶さんの子孫だが、俺は俳句は作らないが、米作る」という台詞が流れる。
この言葉を一茶の子孫に言わせることで、亀井は、一茶とその他の農民の間に存在する深い溝を浮き彫りにする。
一茶の血を受け継いだ子孫の関心が向けられているのは、詩作ではなく稲作である。
作中において、一茶は自らの俳句を通して農民に語りかけるが、農民は聞く耳と、見る目を持たない。善光寺で必死に祈る女性たちや、一茶の子孫のクロースアップに見られるように、農民たちの眼は、涙で曇っているか、さらに言えばカメラに向けられてさえいない。
また、農民たちは作中において、自らの意思を表明することが一度も無く、農民の心を詠うのは、常に「継子一茶」である。
一茶の子孫は、「俳句は作らない」と発言しているが、その際、彼はパイプをくわえており、その口元は動いていない。・・・農民(大衆)と「他者」とは永遠に交わらない。
「もたいなや 昼寝して聞く 田植唄」
「春がすみ 鍬とらぬ身の もったいな」
一茶自身も農民に生まれながら、農業に従事しないということに引け目を感じていたようだ。田植え唄が風に乗って聞こえて来ると一茶の心は落ち着かない。百姓の自分が農作業もせずに昼寝とは・・ばちが当たる!おちおち昼寝もしていられない。農民の出でありながら鍬を持って農作業もせずに、春がすみの俳句などを詠んでいる。
そんな自分のことを「もったいないことをしている」と感じているわけである。そんな思いからか、一茶の句には農家の暮らしを題材にした俳句が多くある。自ら鍬(くわ)を持たない一茶は、農業を応援する気持ちを俳句で表現するしかなかったのだろう。
一茶最晩年の句に次の一句がある。
「花の影寝まじ未来が恐しき」(『希杖本一茶句集』【希杖本】)
文政10年(1827年)閏六月一日、柏原の大火で15年前義弟仙六と和解して得た家を失い、門弟の家を転々とした後、一茶は土蔵暮らしを強いられる。
その年の11月9日その土蔵で病没。58歳のとき、中風を発し、62歳の時再発しているから、3度発作が起きたのかもしれない。したがって芭蕉や蕪村のように、辞世句はない。
掲句には「耕(たがやさ)ずして喰(くら)ひ織(おら)ずして着る体(てい)たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」と前書がある。弟の仙六をはじめ故郷の農民に対して、一茶は生涯、劣等感をもっていたようだ。
一句の「花の影」は西行の辞世句とも言われる「願はくは花の下にて春死なむ」を踏まえていると言われている。
これよりも前、文化2年(1805年)、一茶43歳の時 既に、「耕さぬ罪もいくばく年の暮」(『文化句帖』文化2年12月)と読み、文化4年(1807年)、一茶は45歳の時には、「鍬の罰思ひつく夜や雁の鳴」の句を詠み、この掲句には、「作らずして喰ひ、織らずして着る身程の、行先おそろしく」との前書きがされている。一茶は農民でありながら、鍬も持たず俳句を読んでいる生活に相当早くから思い悩んでいたようだ。
さてこのブログは、これで終えようと思ったのだが、4月9日の朝日新聞朝刊に、「ぷかり浮かぶ愛煙家一茶」のタイトルで、今年6月(旧暦5月5日)で誕生日を迎える小林一茶が、たばこ好きだったことがうかがえる手紙が発見された。・・・との記事があった。以下参照。
一茶、名句の陰に紫煙あり 愛煙家ぶり手紙に
その中に、弟子の村松春甫が描いたとされる小林一茶の肖像画(一茶が60歳の頃らしい)が掲載されていた。
●それが上掲の向かって左の画像であり、長沼の門人、村松春甫が描いた「長沼連衆画象寄合書」の一茶像の膝元にはたばこ盆があり、「句会にはたばこが欠かせなかったこともうかがえる」と書かれていた。ちなみに右は、1日に門人の竜卜宅に泊まり、3日に長沼に行ったところで煙草入れのない鬼気づいた一茶が杉丸の所で忘れたと考え、竜卜に出した手紙と考えられているものの読み下し分である。
この村松春甫(※1のここも参照)が描いた小林一茶の肖像画のことは、このブログで、前に、亀井文夫監督映画「信濃風土記より 小林一茶」の説明の中で、同映画では、「一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。」・・・と書いた。
この映画でいっているところの画像は、以下参考に記載の※18:「一茶に学ぶ会(一茶研究会)」の一茶と俳句の研究のページに掲載されている画像と同じのようだ(ここ参照)。
朝日新聞に掲載されている画像には、春甫の落款らしいものがあるが、※18の一茶と俳句の研究のページに掲載の画象には写しと書かれている。肖像画としては落款のある方が本物のように思えるのだが、1941年製作の映画には、映しと書かれた方の画像らしきものが使われているのだが、何故なのだろう?これには、何か意味があるのだろうか?
新聞に書かれている通り、一茶は煙草が好きらしく、たばこの句を多く詠んでいる。参考※7:「長野郷土史研究会」の「一 茶 発 句 全 集」では季題ごとに区が整理され掲載されており、そこにたばこの句も掲載されている。ただし、たばこは季題ではないのでちょっと探し辛いが・・・。
参考:
※1:旅のあれこれ:小林一茶ゆかりの地
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/1sa00.html
※2:(一茶俳額・俳句鑑賞 五〇「 名月の御覧の通り屑家哉」 ...(Adobe PDF)
http://www012.upp.so-net.ne.jp/yahantei/issa50-61.PDF
※3:一茶の歩んだ道: 文化句帖五年六月名月ご覧の如き屑屋哉
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2007/11/post_a3f2.html
※4:一茶ゆかりの里 一茶館・一茶の歴史
http://www.kobayashi-issa.jp/issa-history
※5:日本史史料集>近世(新史料編)>田沼時代〜寛政の改革
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/37ndx.htm
※6:一茶の「おらが春」のさわり
http://amanojaku.a.la9.jp/issa.htm>
※7:長野郷土史研究会
http://www.janis.or.jp/users/kyodoshi/
※8:生活習慣病を予防する食生活
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html
※9:イー薬草・ドット・コム・オオナルコユリ
http://www.e-yakusou.com/sou02/soumm254.htm
※10:浅野忠信&仲里依紗、熱愛16歳差! (1/2ページ) - 芸能 - SANSPO.COM
http://www.sanspo.com/geino/news/120203/gna1202030507001-n1.htm
※11:年の差婚の男たちが、性交回数を公言するワケ - AERA - 朝日新聞デジタル
http://dot.asahi.com/life/lifestyle/2012092600761.html
※12:「男の浮気はオスの本能」は正しいか?(前編) - Yahoo!知恵袋
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n45632
※13:‘年の差婚’に関する調査(2011年8月2日マクロミル)
http://chosa.itmedia.co.jp/categories/investment/9361
※14;平成24年版厚生労働白書 −社会保障を考える−厚生労働省(Adobe PDF)
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
..※15:亀井文夫 - 日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0071700.htm
※16:【週報56】 「時局と国民精神作興」 文部省
http://binder.gozaru.jp/056-jikyoku.htm
※17:CineMagaziNet!
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN16/index-2012.html
※18:一茶に学ぶ会(一茶研究会)
http://issafan.web.fc2.com/index.html
平成22年国勢調査 - 総務省統計局
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/
日本俳句研究会:俳人列伝;小林一茶
http://jphaiku.jp/haizinn/issa.html
Wikipedia - 小林一茶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E8%8C%B6