今日・4月18日の記念日に「お香の日」がある。
「お香の日」は香文化の普及などを目的に、全国薫物線香組合協議会(現:全国薫物線香工業会※1)により、1992(平成4)年4月に制定されたものだそうだ。
日付は『日本書紀』に日本のお香についての最初の記録と して「595年の夏4月、淡路島に沈水(香木)が漂着した」との記述があることと、「香」の字は分解すると「一十八日と」読み分けられることから。 ・・だという。
「沈香(じんこう)も焚(た)かず屁(へ)もひらず」
こんな言葉の替え歌子供の時によく聞いた。特によいところもないが、悪いところもなくて、平々凡々であることのたとえ。長所もなければ短 所もなく、美徳もなければ悪行もない。役にも立たないかわりに、害にもならない。平凡で、居ても居なくてもどうでも構わぬような人のことを皮肉って言うときに使う。
江戸時代の万能学者平賀源内のオナラ(屁)について書いた洒脱でユニークな書物『放屁論』がある。源内の著作、本編、後編があり、後に源内の他の戯作4編と合わせて『風来六部集』として刊行されているようだ。
私は、読んだことがことがないが、日本国語大辞典によると、風来六部集(1780年)放屁論後編に「人は悪かれ我善(よか)れ、義理も絲瓜(へちま)も瓢単も、沈香(ジンコ)も焚(タカ)ず屁も撒(ヒ)らず」 とあるそうだ(ここ参照)。『風来六部集』原本は以下参考に記載の※2:「国立国会図書館のデジタル化資料 - 風来六部集」を参照)。
「沈香」、正しくは沈水香木(じんすいこうぼく)は、熱帯産の沈香から製する天然香料である。東南アジアに生息するジンチョウゲ科・ジンコウ属の植物である沈香木を土中に埋めて腐敗させて製する。非常に良いにおいがする。
漢字では、良いにおいを匂(※3のここ参照)い、悪いにおいを臭(※3のここ参照)いと書く。ただし「匂」は当用漢字ではなく、また国字である。
よいにおい(匂い)はかおり(旧仮名 かをり)とも言い、漢字は香り(※3のここ参照)・薫り(※3のここ参照)・芳り(※3のここ参照。いずれも当用漢字だが「芳」は表外訓【Yahoo!知恵袋参照】)などを当てる。同じように匂いに関する漢字であるにもかかわらず、その成り立ちはまったく異なる。
「香」という漢字の字源は、穀物である黍(きび)の発酵する時の甘い(うま-い)香りから、出来た字であり、「黍」と「甘」という字を組み合わせた字である。以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来たそうだ。
一方「臭」は鼻(※3のここ参照)という字と犬(※3のここ参照)という字の組み合わせである。鼻の訓読みは、はじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、犬が鼻がよく利(き)くところからこの漢字ができたとされているようだ。
どちらも訓読みははじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、甲骨文字の中にみられるという(※4参照)。
匂いの話は、このブログ「2月1日「ニオイの日」」(ここ参照)でも書いているので、多少重複はするが、今回は前とは少し切り口を変えて書くことにする。
香は仏教における焼香、神道における献香、キリスト教では正教会が振り香炉などで頻繁に用いられる等、洋の東西を問わず様々な宗教で礼拝や儀礼に用いられている。
もともと日本には無い植物である香木が日本に伝来したのは、いったいいつ頃のことだろうか?
香木の日本への渡来について、歴史に記されているものとしては、『日本書紀』巻第二十二 推古天皇の段には以下のように記されている。「三年夏四月、沈水漂著於淡路嶋。其大一囲。嶋人不知沈水、以交薪焼於竈。其烟気遠薫。則異献之」(※5:「岩倉紙芝居館 古典館」日本書紀巻第22-1参照)
推古天皇3年は西暦595年である。この香木は沈水とあるから沈香(じんこう)の木と思われるが、沈香は、名前の通り木質が堅く重いので水に沈むものであるので他の香木か、あるいは質の悪い軽い沈香かもしれない。
それが何であるにしろもともと日本で香木は採れないから、黒潮に乗って南方から流れてきた香木ではあったのだろう。
また、 “其大一圍” の、“圍”は“かこむ“の意味であり、”その大きさ、“ひといだき“だから、三尺程になる。現代語訳にすると、以下のようになるのだろう。
「西暦595年夏4月、沈香(香木の一種)が淡路島に漂着した。その太さは三尺程もあった。島人は沈香ということを知らず、他の薪と共に竈の薪としてくべた。するとその烟(煙)が遠くまでよい薫(香り)を漂わせた。そこでこれは不思議だとして(朝廷に)献上した。
このことは聖徳太子の目にも触れることとなり、太子はすぐにそれを「沈香木」と見抜いたといわれ、同様の記述が『聖徳太子傳歴』にも以下のように記されている。
「三年 乙卯春三月 土佐南海 夜有大光 亦有声如雷響 經卅箇日矣 夏四月 著淡路島南岸 島人不知沉水 以交薪燒於竈 太子遣使令献 其大一圍長八尺 其香異熏 太子觀而大? 奏曰 是爲沉水香者也 此木名栴檀香木 生南天竺國南海岸・・・」。・・・と(※6:「古代史獺祭 列島編 メニュー」の中の14.聖徳太子伝暦上巻原文を参照)。
これは、聖徳太子24歳、推古天皇3年(きのとう)春3月、4月の出来事であるが、同じことが、鎌倉時代初期(1195年頃)の水鏡にも以下のように書かれている。
「世を知ろしめす事、三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に、御門(みかど)「わが身は女人なり。心に物をさとらず。世の政は、聖徳太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人喜びをなしてき。太子はこの時に太子には立ち給ひて、世の政をし給ひしなり。その前はたゞ皇子と申ししかども、今、語り申す事)なれば、さきざきも太子とは申し侍りつるなり。御年(おんとし)二十二になんなり給(ひし。
今年四天王寺をば難波荒陵(なにわあらはか)には移し給ひしなり。元は玉造りの峰に立て給(たま)へりき。三年と申(まう)しし春、
沈はこの国に始めて波につきて来たれりしなり。土左の国の南の海に、夜毎に大いに光るものありき。その声雷のごとくにして、三十日を経て、四月に淡路の島の南の岸に寄り来たれり〔き〕。太さ人の抱く程にて、長さ八尺ばかりなん侍りし。その香しき事たとへん方なくめでたし。これを御門(みかど)に奉(たてまつ)りき。島人なにとも知らず。多く薪になんしける。これを太子(たいし)見給(たま)ひて「沈水香と申(まう)すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸に生ひたり。」・・・と(以下参考の※7:「水鏡 - J−TEXTS 日本文学電子図書館」の日本文学叢書本・水鏡の巻之中第三十五代 推古天皇の条P052以降参照)。
まるで、上記6で紹介した『聖徳太子傳歴』(原文)の翻訳のようで判り易いでしょう。続いてもう少し読んでみよう。ここも、『聖徳太子傳歴』の翻訳の様だ。
「この木冷やかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの蛇まとひつけり。
その時に、人かの所へ住き向ひて、その木に矢を射立てゝ、冬になりて、蛇の穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。
その実は鶏舌香。その花は丁子。その油は薫陸。久しくなりたるを沈水香といふ。久しからぬを浅香といふ。御門(みかど)、仏法を崇め給(たま)ふが故(ゆゑ)に、釈梵・威徳の浮べ送り給ふなるべし」と申し給ひき。御門(みかど)この木にて観音をつくりて、比蘇寺になん置奉り給ひし。・・・・」と。
淡路島に流れ着いた香木は、朝廷に献上されたのち、御門(天子・天皇の位。また、天皇の尊称)によって観音像が作られ、吉野の比蘇寺(ひそでら)に奉納したとしている。
比蘇寺は、現在の奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院世尊寺のことである。
また、淡路島の海岸沿いにたたずむ枯木神社には、今もその香木をご神体として大切に祀られているという。
そして、同島にある伊弉諾神宮境内には、香木伝来を記念して石碑が建てられているようだ。
『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊(イザナギ)Iが、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、これを当社の起源としている(※7参照)。
そして、淡路市一宮地区(旧津名)といえば、昔から香の一種線香の生産で有名なところである。
線香は、16世紀の終わり天正年間(1573–1592年) に、当時貿易で栄えた大阪・堺に中国から線香の製法が伝わり、日本独自の押し出し機を使った製法を導入し製造したのが日本最古の線香とされている。戦前には堺市「が全国生産量の約60%を占めていたようだが、嘉永3年(1850年)に堺の職人から淡路市の一宮地区に製造方法が教えられ製造を始め、昭和30年代半ばには一宮地区が線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち、70%を占めているという(※8)。
一宮地区内には線香事業所や下請け業者が多数並び、このエリアでは4人に1人が線香に関っており、町並みを歩くと、どこからともなく良い香りが漂ってくる。また、線香産業を核にした総合計画を展開しており、香りをテーマにした「パルシェ香りの館」は、150種類のハーブを植裁する香りのテーマパークとして整備されているそうだ(※9参照)。
そういえば、今日の記念日を制定した日本薫物線香工業会の事務局は、淡路市志筑新島5-2の淡路市商工会内にあるようだ。
先にも述べたように仏教伝来の年代を巡っては諸説あるが『日本書紀』によると、6世紀の欽明天皇の時代に百済百済から仏像が贈られたが、これの扱いを巡って、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏等が争いが発生した。
そして、欽明天皇13年(552年)10月、廃仏派が仏像を難波の堀江に投棄し、また、敏達天皇14年(585年)にも、物部守屋が仏舎利塔を倒し、寺に火を放ち、仏像、仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波へ運び、前回と同じく堀江に捨て、海に流し去らしめたと記録している。
両者の対立は、用明天皇の没(587年)後さらに激しさを増し、蘇我馬子は物部守屋討伐の軍を起こす。
この時討伐軍に参加した聖徳太子は四天王像を彫り戦勝祈願し、勝利すれば一寺を建立すると誓いを立て、物部守屋の滅亡後誓願どおりに寺を建立した。これが四天王寺である。
仏教の隆盛に伴い、奈良時代には中国大陸との交流が盛んになると、薬をはじめ、多くの香料・香炉が日本に入ってきた。単に文献にその名を認めるのが大半であるが、有難いことに幾つかのものが、正倉院や寺院の宝物殿蔵に当時の姿を伝えている。
天平勝宝8年(756年)に光明皇太后が、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。この時香料も薬用として献ぜられたため、薬として一括され献納目録が作られている。
正倉院の薬物は原則としては『種々薬帳』に記されている。薬物60種のうち竜骨と犀角が三種づつあるので、厳密には56種であるようだ。これらはすべて外国産のもので、それらのうち約6分の1が南海産のものだという。
お香の日[2)・参考へ
「お香の日」は香文化の普及などを目的に、全国薫物線香組合協議会(現:全国薫物線香工業会※1)により、1992(平成4)年4月に制定されたものだそうだ。
日付は『日本書紀』に日本のお香についての最初の記録と して「595年の夏4月、淡路島に沈水(香木)が漂着した」との記述があることと、「香」の字は分解すると「一十八日と」読み分けられることから。 ・・だという。
「沈香(じんこう)も焚(た)かず屁(へ)もひらず」
こんな言葉の替え歌子供の時によく聞いた。特によいところもないが、悪いところもなくて、平々凡々であることのたとえ。長所もなければ短 所もなく、美徳もなければ悪行もない。役にも立たないかわりに、害にもならない。平凡で、居ても居なくてもどうでも構わぬような人のことを皮肉って言うときに使う。
江戸時代の万能学者平賀源内のオナラ(屁)について書いた洒脱でユニークな書物『放屁論』がある。源内の著作、本編、後編があり、後に源内の他の戯作4編と合わせて『風来六部集』として刊行されているようだ。
私は、読んだことがことがないが、日本国語大辞典によると、風来六部集(1780年)放屁論後編に「人は悪かれ我善(よか)れ、義理も絲瓜(へちま)も瓢単も、沈香(ジンコ)も焚(タカ)ず屁も撒(ヒ)らず」 とあるそうだ(ここ参照)。『風来六部集』原本は以下参考に記載の※2:「国立国会図書館のデジタル化資料 - 風来六部集」を参照)。
「沈香」、正しくは沈水香木(じんすいこうぼく)は、熱帯産の沈香から製する天然香料である。東南アジアに生息するジンチョウゲ科・ジンコウ属の植物である沈香木を土中に埋めて腐敗させて製する。非常に良いにおいがする。
漢字では、良いにおいを匂(※3のここ参照)い、悪いにおいを臭(※3のここ参照)いと書く。ただし「匂」は当用漢字ではなく、また国字である。
よいにおい(匂い)はかおり(旧仮名 かをり)とも言い、漢字は香り(※3のここ参照)・薫り(※3のここ参照)・芳り(※3のここ参照。いずれも当用漢字だが「芳」は表外訓【Yahoo!知恵袋参照】)などを当てる。同じように匂いに関する漢字であるにもかかわらず、その成り立ちはまったく異なる。
「香」という漢字の字源は、穀物である黍(きび)の発酵する時の甘い(うま-い)香りから、出来た字であり、「黍」と「甘」という字を組み合わせた字である。以降黍の音を簡略化し禾とし、ついに「香」という現在の字が出来たそうだ。
一方「臭」は鼻(※3のここ参照)という字と犬(※3のここ参照)という字の組み合わせである。鼻の訓読みは、はじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、犬が鼻がよく利(き)くところからこの漢字ができたとされているようだ。
どちらも訓読みははじめ(最初のもの。先端。でているところ。)であり、甲骨文字の中にみられるという(※4参照)。
匂いの話は、このブログ「2月1日「ニオイの日」」(ここ参照)でも書いているので、多少重複はするが、今回は前とは少し切り口を変えて書くことにする。
香は仏教における焼香、神道における献香、キリスト教では正教会が振り香炉などで頻繁に用いられる等、洋の東西を問わず様々な宗教で礼拝や儀礼に用いられている。
もともと日本には無い植物である香木が日本に伝来したのは、いったいいつ頃のことだろうか?
香木の日本への渡来について、歴史に記されているものとしては、『日本書紀』巻第二十二 推古天皇の段には以下のように記されている。「三年夏四月、沈水漂著於淡路嶋。其大一囲。嶋人不知沈水、以交薪焼於竈。其烟気遠薫。則異献之」(※5:「岩倉紙芝居館 古典館」日本書紀巻第22-1参照)
推古天皇3年は西暦595年である。この香木は沈水とあるから沈香(じんこう)の木と思われるが、沈香は、名前の通り木質が堅く重いので水に沈むものであるので他の香木か、あるいは質の悪い軽い沈香かもしれない。
それが何であるにしろもともと日本で香木は採れないから、黒潮に乗って南方から流れてきた香木ではあったのだろう。
また、 “其大一圍” の、“圍”は“かこむ“の意味であり、”その大きさ、“ひといだき“だから、三尺程になる。現代語訳にすると、以下のようになるのだろう。
「西暦595年夏4月、沈香(香木の一種)が淡路島に漂着した。その太さは三尺程もあった。島人は沈香ということを知らず、他の薪と共に竈の薪としてくべた。するとその烟(煙)が遠くまでよい薫(香り)を漂わせた。そこでこれは不思議だとして(朝廷に)献上した。
このことは聖徳太子の目にも触れることとなり、太子はすぐにそれを「沈香木」と見抜いたといわれ、同様の記述が『聖徳太子傳歴』にも以下のように記されている。
「三年 乙卯春三月 土佐南海 夜有大光 亦有声如雷響 經卅箇日矣 夏四月 著淡路島南岸 島人不知沉水 以交薪燒於竈 太子遣使令献 其大一圍長八尺 其香異熏 太子觀而大? 奏曰 是爲沉水香者也 此木名栴檀香木 生南天竺國南海岸・・・」。・・・と(※6:「古代史獺祭 列島編 メニュー」の中の14.聖徳太子伝暦上巻原文を参照)。
これは、聖徳太子24歳、推古天皇3年(きのとう)春3月、4月の出来事であるが、同じことが、鎌倉時代初期(1195年頃)の水鏡にも以下のように書かれている。
「世を知ろしめす事、三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に、御門(みかど)「わが身は女人なり。心に物をさとらず。世の政は、聖徳太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人喜びをなしてき。太子はこの時に太子には立ち給ひて、世の政をし給ひしなり。その前はたゞ皇子と申ししかども、今、語り申す事)なれば、さきざきも太子とは申し侍りつるなり。御年(おんとし)二十二になんなり給(ひし。
今年四天王寺をば難波荒陵(なにわあらはか)には移し給ひしなり。元は玉造りの峰に立て給(たま)へりき。三年と申(まう)しし春、
沈はこの国に始めて波につきて来たれりしなり。土左の国の南の海に、夜毎に大いに光るものありき。その声雷のごとくにして、三十日を経て、四月に淡路の島の南の岸に寄り来たれり〔き〕。太さ人の抱く程にて、長さ八尺ばかりなん侍りし。その香しき事たとへん方なくめでたし。これを御門(みかど)に奉(たてまつ)りき。島人なにとも知らず。多く薪になんしける。これを太子(たいし)見給(たま)ひて「沈水香と申(まう)すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸に生ひたり。」・・・と(以下参考の※7:「水鏡 - J−TEXTS 日本文学電子図書館」の日本文学叢書本・水鏡の巻之中第三十五代 推古天皇の条P052以降参照)。
まるで、上記6で紹介した『聖徳太子傳歴』(原文)の翻訳のようで判り易いでしょう。続いてもう少し読んでみよう。ここも、『聖徳太子傳歴』の翻訳の様だ。
「この木冷やかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの蛇まとひつけり。
その時に、人かの所へ住き向ひて、その木に矢を射立てゝ、冬になりて、蛇の穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。
その実は鶏舌香。その花は丁子。その油は薫陸。久しくなりたるを沈水香といふ。久しからぬを浅香といふ。御門(みかど)、仏法を崇め給(たま)ふが故(ゆゑ)に、釈梵・威徳の浮べ送り給ふなるべし」と申し給ひき。御門(みかど)この木にて観音をつくりて、比蘇寺になん置奉り給ひし。・・・・」と。
淡路島に流れ着いた香木は、朝廷に献上されたのち、御門(天子・天皇の位。また、天皇の尊称)によって観音像が作られ、吉野の比蘇寺(ひそでら)に奉納したとしている。
比蘇寺は、現在の奈良県吉野郡大淀町比曽にある曹洞宗の寺院世尊寺のことである。
また、淡路島の海岸沿いにたたずむ枯木神社には、今もその香木をご神体として大切に祀られているという。
そして、同島にある伊弉諾神宮境内には、香木伝来を記念して石碑が建てられているようだ。
『日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊(イザナギ)Iが、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、これを当社の起源としている(※7参照)。
そして、淡路市一宮地区(旧津名)といえば、昔から香の一種線香の生産で有名なところである。
線香は、16世紀の終わり天正年間(1573–1592年) に、当時貿易で栄えた大阪・堺に中国から線香の製法が伝わり、日本独自の押し出し機を使った製法を導入し製造したのが日本最古の線香とされている。戦前には堺市「が全国生産量の約60%を占めていたようだが、嘉永3年(1850年)に堺の職人から淡路市の一宮地区に製造方法が教えられ製造を始め、昭和30年代半ばには一宮地区が線香生産量日本一となり、現在では全国生産量のうち、70%を占めているという(※8)。
一宮地区内には線香事業所や下請け業者が多数並び、このエリアでは4人に1人が線香に関っており、町並みを歩くと、どこからともなく良い香りが漂ってくる。また、線香産業を核にした総合計画を展開しており、香りをテーマにした「パルシェ香りの館」は、150種類のハーブを植裁する香りのテーマパークとして整備されているそうだ(※9参照)。
そういえば、今日の記念日を制定した日本薫物線香工業会の事務局は、淡路市志筑新島5-2の淡路市商工会内にあるようだ。
先にも述べたように仏教伝来の年代を巡っては諸説あるが『日本書紀』によると、6世紀の欽明天皇の時代に百済百済から仏像が贈られたが、これの扱いを巡って、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏等が争いが発生した。
そして、欽明天皇13年(552年)10月、廃仏派が仏像を難波の堀江に投棄し、また、敏達天皇14年(585年)にも、物部守屋が仏舎利塔を倒し、寺に火を放ち、仏像、仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波へ運び、前回と同じく堀江に捨て、海に流し去らしめたと記録している。
両者の対立は、用明天皇の没(587年)後さらに激しさを増し、蘇我馬子は物部守屋討伐の軍を起こす。
この時討伐軍に参加した聖徳太子は四天王像を彫り戦勝祈願し、勝利すれば一寺を建立すると誓いを立て、物部守屋の滅亡後誓願どおりに寺を建立した。これが四天王寺である。
仏教の隆盛に伴い、奈良時代には中国大陸との交流が盛んになると、薬をはじめ、多くの香料・香炉が日本に入ってきた。単に文献にその名を認めるのが大半であるが、有難いことに幾つかのものが、正倉院や寺院の宝物殿蔵に当時の姿を伝えている。
天平勝宝8年(756年)に光明皇太后が、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。この時香料も薬用として献ぜられたため、薬として一括され献納目録が作られている。
正倉院の薬物は原則としては『種々薬帳』に記されている。薬物60種のうち竜骨と犀角が三種づつあるので、厳密には56種であるようだ。これらはすべて外国産のもので、それらのうち約6分の1が南海産のものだという。
お香の日[2)・参考へ