今日・4月28日は「庭の日」。
庭や造園への関心をもっと高めようと、全国の庭づくりのプロが集う日本造園組合連合会(※1)が制定したもの。
日付は4と28を「良(4)い庭(28)」と読む語呂合わせと、全国的に庭が美しく映える時期となることから。・・・と、日本記念日協会の由緒には書かれていた。
庭は、木や植物、草花を植えたり、石や池などを配して花壇として住民の安らぎや慰みの場として利用されることが多い。
住宅敷地の小さな空間に設けられる庭を「坪庭(つぼにわ)」と、またその本格的で規模の大きなものは、「庭園(ていえん)」と呼ばれることもある。
現代では、屋根のある庭、室内庭園、全く植物を用いない庭(平庭)なども、「庭」と称されることもある。
漢字の「庭」の字源は、部首:「广」(家)+音符「廷」(テイ;まっすぐに伸びたの意)の会意形声文字であり、「ニハ」は、古くは家屋の前後にある空地、これが転じて、神事や狩猟・農事などの祭祀の行われる場所や、なにかを行う平らな土地をさしていっていたようだ。
今では、築山(つきやま)、泉水ないしは植え込みを設けて観賞の目的とする空間の呼称となっている。
奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していた。
以下は『万葉集』に掲載されている歌である(参考※2:「たのしい万葉集:」参照)。
歌:妹として、ふたり作りし、我が山斎(しま)は、木高く茂く、なりにけるかも(巻三-452。作者:大伴旅人)
意訳:君(妻)と一緒に作った家の庭は、木も小高くなり枝も茂ってしまったな〜。
九州大宰帥(だざいのそち。長官)だった大伴旅人が、任を解かれて天平2年(西暦730年)の暮れに平城京の自邸に帰ってきて詠んだ歌。山斎(しま)とは庭の山水のことで、庭に築かれた築山や池泉を指している。
次の453番歌ともに亡き妻を偲ぶ歌であり、大伴旅人の邸宅に築山や池泉が築かれていたことを窺わせる歌である。
因みに453番歌は以下の通り。
歌:我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(巻三-453。作者:大伴旅人)
意訳:あなたが植えた梅の木が、こんなにも育っている。それを見るたびに私はあなたを思い出し、胸がつまって、涙を流してしまうのです。
奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していたが、平安時代ごろから庭園の意味に転じた。
梅はバラ科サクラ属の落葉低木である。1〜3月、葉が出る前に白、ピンク、紅などの花が咲く。中国が原産で、かなり古い時代から日本でも好まれたようで、万葉集にも多く詠まれているが、万葉集の梅は、すべて白梅と考えられている。
歌:我が園に、梅の花散る、ひさかたの、天より雪の、流れ来るかも(巻5-822。作者: 大伴旅人)
意訳:私の園(庭)に、梅の花が散っています。天から雪が降ってくるのでしょうか。
この歌は、先の歌とは違って、大宰の帥(そち)の任を解かれて天平2年(西暦730年)暮れに平城京に戻ってくる前、つまり、同・天平2年正月13日、大宰帥(そち)旅人は大宰府(だざいふ)の我が館に、山上憶良・小野老(おののおゆ)・沙弥満誓(さみまんせい。※3参照)など、筑紫に住んでいたそうそうたる万葉歌人のメンバーのほか、管下の部下など31人を集めて宴を華やかに催したときに詠まれた「梅花の歌三十二首」中の一首である(※2「たのしい万葉集:」の梅を詠んだ歌、※4:「万葉集を詠む」の梅花の宴を参照)。
ここでは、庭のことを「園」と詠んでいる。当時、梅の花は異国の植物で珍しく、好んで植えられたのだろう。
外国への玄関口でもあった大宰府にふさわしく、もちろん旅人(たびと)の邸宅の庭にも植えられていて、エキゾチシズムな雰囲気を醸し出していたことだろう。
ただ、他の歌が今咲き誇っている梅の花を主題にしているのに、宴を催した会の主人である旅人の歌が、「梅の花散る」景を詠みこむのは奇妙であり、この歌が、目の前の風景を率直に詠んだものではなく、旅人の催した歌の会の目的は、2年前に急逝した妻大伴郎女への鎮魂にあったのではないだろうか。
この席に同席した山上億良(この席での名は、筑前守山上大夫)が詠んだ以下の歌、
「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」(万葉集巻5−818)
意訳すると、「春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう。」となるのだろうが、この歌には、2年前に妻を失った旅人への、それとない心遣いが現れている。
奈良市内には、1975(昭和50)年以降の発掘調査で奈良国立文化財研究所によって発見された平城京左京三条二坊の宮跡庭園という変わった名の庭園がある。
宮跡という名前がつくが、この地は正確には宮外であり、平城宮近くに広がっていた奈良時代の皇族長屋王邸宅跡とされるところから発見された貴重な庭園遺構である。
坪の中央部の庭園と園池及びその西側の建物群が確認され、奈良時代の庭園のほぼオリジナルな姿を伝えるものとして、国の特別史跡に指定されている。
既に平安時代の寝殿作りの庭園と同じく自然を模して園池には底に玉石が敷き詰められたS字型に屈曲した水流の跡があり、曲水宴で使われたとみられているようだ。
また、公式の宴会や儀式を催し迎賓館としての役割をも担ったとされる、同じ平城宮域内の東院庭園遺構(1967年発掘。※6参照)にもS字の池と洲浜(水辺にできる島形の洲)が築かれていた。
S字の池と洲浜は、日本式庭園つまり、日本庭園固有の特徴であり、既に、この時代には、その様式が確立していたと考えられている。
日本庭園は西洋庭園と違って、「曲線による造形と左右非対称」であることが大きな特徴だといわれている。
18世紀初頭のイギリスで生まれたイギリス式庭園、自然を生かした「風景式庭園」を除けば、西洋の庭園は、花や緑を使いながらも幾何学的な秩序による、人工的な美しさを追求している幾何学式庭園(イタリア式庭園 、フランス式庭園)などである。
これに対し、 日本庭園は、大自然を母体としながらも自然の風景をそのまま庭園に取り入れた「写景的庭園」などではなく、自然のなかの好ましい景観を、好ましい手法によって、理想化して取り入れた「象徴的庭園」であるといえる。
●上掲の画象は、フランス、ヴェルサイユ宮殿の庭園。Wikipediaより)。
現代とは違い、古代の日本の人々は自然と強く共生していた。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか、磐座参照)、神池(神霊の宿る池)・神島(神が宿る島)など、こうした池を掘り、島を浮かべ、石を神と見立て崇める習慣(自然崇拝)があった。
古代中国では不老不死、永遠の生命を求める神仙思想があり、中国や朝鮮半島の庭園では古くからこの神仙思想に基づく庭園がつくられており、日本にも飛鳥時代に伝えられた。
日本に仏教が伝来すると、それまでの自然崇拝が、中国、朝鮮から移入された庭園文化と相まって、独自の日本庭園造りへと発展していったのであろう。
平成11年(1999年)飛鳥京跡で発見された日本で最古の苑池遺構(※7参照) などに取り入れられており、この遺構は、数千?に及ぶ池には底にこぶし大の平石が敷き詰められ、石を積み上げた中島が配されている。
護岸は人の頭大の石を三段に積んだ高さ80cmほどの石垣となっている。
また、「出水の酒船石」(ここ参照)と呼ばれる石造りの流水施設や、池に突き出た涼み床が設けられているのが特徴で、朝鮮半島の百済の園池(庭園と泉水)と、新羅時代の両方の特徴を備えており、当時の政権が進んだ文化を採り入れていることを誇示するために作られた可能性があるといわれている(※9)。
『日本書紀』巻第29、天渟中原瀛眞人天皇 (天武天皇)の14 年(685年)11月6日の条に、天武天皇が、白錦後苑(しらにしきのみその)におでましになった(原文:幸白錦後苑。※8参照)とあり、飛鳥京苑池であるとする説もあるようだが、いずれにしても、これ以後の日本庭園のデザインに大きな影響を与えたといわれる(※9)。
この時代上古以来の神池・神島にも橋が架けられるなどして、次第に庭園的要素が固まってきた。
そして、本格的な日本庭園の歴史は、延暦13年(794年)桓武天皇による平安京への遷都とともに急速に始まったようだ。
都の東・北・西の三方を囲む優美な稜線の山、ほどよく起伏に富んだ地形、大小の清流など、さまざまな自然条件に恵まれた京都は、まさに風光明媚の地であった。
加えて、沼や湿地、湧水が多く、また豊富な庭石にも恵まれた。このような作庭にとって絶好の条件が整った土地柄は、池、流れ、護岸などをつくる技術を発達させた。
平安中期に書かれ、日本最古の庭園書と言われている『作庭記』は、寝殿造りを前提として、立石・島・池・河・滝などの次第を詳述し、後半は立石の口伝・禁忌などを述べ、最後は楼閣の条でおわる。
この書では、冒頭の基本理念に、 “石をたてん事まつ大旨をこころうへき也”として、地形や池の形態を踏まえた制作方針に、実際の自然風景の風情を思い合わせ ること。
次に、昔の名人の作風を規範とし、依頼主の意向を斟酌しながら自分の美意識を発揮すること。
そして最後に、国々の名所の見所を、自分の制作方針に反映させて、大体の風情を、平易にその名所になぞらえることの3つを主張しており、「模倣の美学」、日本の伝統的な「型」 、名所の模倣「見立て」などが重視されている(※10、※11参照)。
また、当時の四神相応観・陰陽五行説が造庭にも重視され、王朝三位以上の高位貴族の邸宅にみられたとされる。
そこに見られる様式は、寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、庭には太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿(つりどの)を設けた。
なお、平安時代の当時の建築遺構は、今日に残っていないとされ、そのため、後世に描かれた絵巻(『源氏物語絵巻』(※12)『年中行事絵巻』(※13)など)や平安時代のことを記したとされる記録、江戸時代に故実に基づいて再興された(紫宸殿、清涼殿)の造りなどから考察されているものだという。
●上掲の画象は、典型的な寝殿造である東三条殿復元模型(京都文化博物館)。
1: 寝殿(しんでん)、2.:北対(きたのたい)、3.:細殿(ほそどの)、4.:東対(ひがしのたい)、5.:東北対(ひがしきたのたい)、6.:侍所(さむらいどころ)、7.:渡殿(わたどの)、8: 中門廊(ちゅうもんろう)、9.:釣殿(つりどの)。画像は、Wikipediaより。
平安時代後期から鎌倉時代になると、末法思想の影響で、極楽浄土の世界を描いた曼荼羅の構図を庭に取り入れた浄土式庭園が発達した。
この様式は寝殿造りの庭園に浄土の世界を現出するような形で発展したもので、京都府加茂町の浄瑠璃寺、宇治市の平等院などの庭がその好例である。
源頼朝により、鎌倉幕府が開かれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立する時代となったが、文化面での主導権は依然として京都にあった。
そのため、武士の進出ととともに興隆した禅宗寺院であっても当初の庭園は浄土式を踏襲した浄土式庭園であった。
13世紀中期の鎌倉において客を迎え入れることが多くなった上層武家住宅では接客のための建物が発達し、座敷(和室)が生まれた。
具体的には、嘉禎2年(1236年)に執権・北条泰時が将軍の御成のために「寝殿」を建てているが、その孫の北条時頼の代には武家住宅の本来の客間であった出居(でい)が発展して寝殿に代わり御成にも使用できる出居が生まれた。
その主室は「座敷」と呼ばれる建築様式であり、これが書院造の原型とされる。
こうして、貴族・武士階級の建築は寝殿造りから書院造りに様変わりしていった。それに伴い、庭園も建物に隣接した書院造りに変わっていく。
書院式庭園は 寝殿造庭園に比べてやや小さく作りも簡素だが、基本的には浄土式庭園に近い形態 が引き継がれている。
また中国から禅が伝わるようになり、日本庭園も大きく禅の影響を受けるようになる。
●上掲の画は、「都林泉名勝図会」巻之一 “相国寺林光院鶯宿梅”である。画像は、以下参考の※15:「平安京都名所図会データべース」の『都林泉名勝図会』巻の一の14頁より借用。
『都林泉名勝図会』(みやこりんせんみょうしょうずえ)は、江戸時代後期の京都の名庭園を網羅したガイドブックであり、庭園の版画がたくさん掲載されているが、多くある名所図会の中でも庭園だけが取り上げられた珍しいものである。
その中に取り上げられた一つ相国寺は、臨済宗相国寺派(※16)の大本山で、近くに「花の御所」を構えた足利義満が創建した寺、京都五山の第二であり、あの有名な金閣寺(正式名:鹿苑寺)・銀閣寺(正式名:慈照寺)も相国寺の塔頭寺院である。
都林泉名勝図会の相国寺解説 (翻刻文,巻之一の15頁文章)には、以下のように書かれている。
相国寺は上古出雲寺(※17のここ参照)とて、伝教大師(最澄)の草創し給う天台の仏刹なり。永徳年中足利義満公禅院として、夢窓国司(むそう こくし)を始祖とし、妙葩禅師(めうはぜんじ)を二世とす。
封域(ほういく)に十景あり、惣門(外構えの大門、正門)の前を般若林といふ。
排門を妙荘厳域と号け、山門を円通といふ、覚雄宝殿とは仏殿なり。
前の川を龍淵水と号し、連池(れんち)を功徳池といひ、天界橋を架(わた)す。
天輪蔵(てんりんざう)を祝?(字不明)堂といふ。洪音楼は鐘楼(しゅろう)にして、此鐘は南都・元興寺(がんこうじ)の鐘なり、中頃鬼神出てこれを撞(つく)といふ。
故に人恐れて撞かずとなん、相国義満公の命によって此の寺に掲(かく)る。
(中略)
塔頭林光院には鶯宿梅(おうしゅくばい)あり、是はむかし西京(西ノ京)紀貫之の家にありしを、清涼殿の前に植えられんとて求給ひぢに、貫之の娘おしみて歌よみければ其侭(まま)かへし給ふ)・・・(以下略)。・・・と。
当時の相国寺の全体図「相国寺図絵全体図」は、※15:「平安京都名所図会データべース」の『都名所図会』の巻之一の11頁 「平安城再刻」で見られる。
この説明文にもあるように、現在の開山堂は桃園天皇の皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化4年(1807年)に下賜されたものであり、その前に広がる庭園は江戸時代後期の枯山水庭園である(※18参照)。
ここに出てくる夢窓国司(=夢窓疎石)は、室町時代における禅宗発展の基礎を築いた人物であり、多くの門弟を育て、その数は1万人以上であったと伝えられているそうだが、単に、それだけではなく、注目すべきは、その作庭によっても広くその名を知られていることだという。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている西芳寺(苔寺の愛称で知られる)及び、天龍寺(京都五山の第一位とされてきた)のほか、多くの庭園の設計でも知られている。
因みに、この西芳寺を模して創られたのが足利3代将軍義満の鹿苑寺(金閣寺)と8代将軍義政の慈照寺(銀閣寺)である。この二つの名園は、ともに中島を配した池を中心とした浄土式のデザインをみせている。
平安から鎌倉時代を通じて培われた美の伝統を受け継ぎつつ、新しい禅宗風の造形感覚を加味したものである。
枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式である。
例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水であるが、石の表面の紋様で水の流れを表現することもある。
抽象的な表現の庭が室町時代の禅宗寺院で隆盛を極め、枯山水庭園が発達した。枯山水自体は既に平安時代からあったものだが、室町時代に禅寺の方丈、庭園で発展し、独立した庭園としての地位を確立した。
●上掲の画象は、龍安寺の方丈庭園(石庭)と龍吟庵 東庭(赤砂の枯山水)。Wikipediaより。
安土桃山時代になると、戦国大名が力を誇示するために競い合って作庭された。
豊臣秀吉が醍醐の花見に際して造った醍醐寺の三宝院庭園は、自らが基本設計を行なったという。
作庭開始後、4か月後に秀吉はなくなるが、醍醐寺座主の義演は、秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を参加させ、義演が亡くなる元和10年1(624年)までの27年間にわたって石をふんだんに使った贅をつくした庭が造られた。
また、逆に、千利休によって侘び茶が大成され、茶室に至る露地の様式が完成。飛石、手水鉢(ちょうずばち)、石灯籠(どうろう)、潜(くぐ)り戸、木戸、腰垣、植栽などが配置された今日見られるような茶庭(茶屋に付属した庭)という体裁がしだいに整えられていった。
江戸時代初期は、しばしば王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的な、または安土桃山時代に発達した豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し、書院造に影響を与える茶庭など多くの様式が並存する時代であったが、将軍や大名などを中心に、城や屋敷を築く際にこれらの様式を集大成させた回遊式庭園を誕生させた。
これら大名庭園の多くは大池泉のある、回遊及び舟遊式であり、ポイントに四阿(あずまや、しあ。東屋とも)、茶亭(茶室)、橋を設け楽しみながら園内を回遊できる総合庭園であった。
大名庭園の代表的なものに、金沢の兼六園、東京の小石川後楽園、水戸偕楽園、岡山の後楽園、高松の栗林公園などが知られている。
中後期になると作庭方法を記した『築山庭造伝(前編)(後編)』が出版(※21参照)され、庶民の住まいにも庭が造られるなど一般化していったようだ。
元禄時代以降は鑑賞を目的として植物を栽培する園芸文化も成熟し多くの園芸書が出版されるようになると、植木職人はウメ、サクラ、ツバキ、アサガオなどを競って育種し、庶民の間でも大いに流行った。
一般庶民の中でも経済的にゆとりのある町家にも庭が作られるようになり、屋敷内の建物や塀などで囲まれたごく限られた空間の中で露地的な考え方を導入した壺庭(坪庭)というものが発達した。
明治時代になると力を付けた実業家や政府高官などが多くの庭園を造るようになり、また、芝生面を広くとった明るい庭も多く作庭されるようになった。
そして、この時代から、西洋の整形式庭園の影響を受けた庭園も現れた。東京新宿の新宿御苑や、わが地元神戸市須磨区の須磨離宮公園(冒頭の画像)がそれだが、和洋析衷式のものとなっている。
四季の変化がある日本では、私の家のような小さな坪庭でも、立地が山の麓であることから、四季により鶯やメジロ、ヒヨドリ、シギなどが来てくれるし、花は咲かなくても青く茂った木を見ているだけで心が癒される。
しかし、あの阪神・淡路大震災で、私の家の周辺でも多くの家が損壊し、家を建て直しているが、多くの家の庭から、植木が姿を消してしまった。
そして、新しい家では植木のない草花中心のガーデニングのみとなったところが多くなった。
やはり園芸も植木があってこそのものだと思うのだが・・・、ちょっとさみしい気がする。
「庭」については書きたいことがまだまだあるのだが、今回はこれくらいにして、またの機会にもう一度書いてみようと思う。
何か中途半端になったが、今日はここまでとする。
※1:(社)日本造園組合連合会(略称:造園連)
http://www.jflc.or.jp/
※2:たのしい万葉集: 巻ごと
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
※3:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※4:万葉集を詠む
http://manyo.hix05.com/index.html
※5:奈良歴史漫歩 No.057平城京左京三条二坊宮跡庭園
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm060.html
※6:東院庭園 - 平城宮跡 - 奈良文化財研究所
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html
※7:飛鳥京跡苑池遺構
http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/enti_iseki.htm
※8:日本書紀
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:中田ギャラリー日本庭園を愉しむ
http://muso.to/index.html
※10:作庭記
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/sakuteiki/sakuteiki.html
※11:前田家 名物裂の精華 - 石川県立美術館
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/tayori/2001/tayori_09/tayori_syosai09_1.html
※12:寝殿造 貴族の住空間・貴族の生活・風俗博物館〜
http://www.iz2.or.jp/kizoku/
※13:京都大学文学部所蔵『年中行事絵巻.』
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E7%B5%B5%E5%B7%BB
※14:京都大学電子図書館:夢窓疎石
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/soseki.html
※15:平安京都名所図会データべース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
※16:臨済宗相国寺派のHP
http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html
※17:文化史01 遷都以前の古代寺院 - 京都市
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka01.html
※18:相国寺 裏方丈庭園、開山塔庭園 | 京の庭を訪ねて | 京都市都市緑化協会
http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien015.html
※19:夢窓疎石と作庭
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/nihongaku/musou.htm
※20:世界遺産京都醍醐寺:境内案内
http://www.daigoji.or.jp/garan/sanboin_detail.html
※21:公開: 作庭書
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/welcome.html
近代デジタルライブラリー - 増補宮殿調度図解(関根正直) 1/2
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bun1927_sek_01.htm
庭園用語集 - IFNET
http://www.ifnet.or.jp/~chisao/yougo.htm#l
考古情報の部屋
http://www.ne.jp/asahi/musica/rosa/index2.html
壺 齋 閑 話>大伴家持>花鳥の歌
http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_162.html
庭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD
庭や造園への関心をもっと高めようと、全国の庭づくりのプロが集う日本造園組合連合会(※1)が制定したもの。
日付は4と28を「良(4)い庭(28)」と読む語呂合わせと、全国的に庭が美しく映える時期となることから。・・・と、日本記念日協会の由緒には書かれていた。
庭は、木や植物、草花を植えたり、石や池などを配して花壇として住民の安らぎや慰みの場として利用されることが多い。
住宅敷地の小さな空間に設けられる庭を「坪庭(つぼにわ)」と、またその本格的で規模の大きなものは、「庭園(ていえん)」と呼ばれることもある。
現代では、屋根のある庭、室内庭園、全く植物を用いない庭(平庭)なども、「庭」と称されることもある。
漢字の「庭」の字源は、部首:「广」(家)+音符「廷」(テイ;まっすぐに伸びたの意)の会意形声文字であり、「ニハ」は、古くは家屋の前後にある空地、これが転じて、神事や狩猟・農事などの祭祀の行われる場所や、なにかを行う平らな土地をさしていっていたようだ。
今では、築山(つきやま)、泉水ないしは植え込みを設けて観賞の目的とする空間の呼称となっている。
奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していた。
以下は『万葉集』に掲載されている歌である(参考※2:「たのしい万葉集:」参照)。
歌:妹として、ふたり作りし、我が山斎(しま)は、木高く茂く、なりにけるかも(巻三-452。作者:大伴旅人)
意訳:君(妻)と一緒に作った家の庭は、木も小高くなり枝も茂ってしまったな〜。
九州大宰帥(だざいのそち。長官)だった大伴旅人が、任を解かれて天平2年(西暦730年)の暮れに平城京の自邸に帰ってきて詠んだ歌。山斎(しま)とは庭の山水のことで、庭に築かれた築山や池泉を指している。
次の453番歌ともに亡き妻を偲ぶ歌であり、大伴旅人の邸宅に築山や池泉が築かれていたことを窺わせる歌である。
因みに453番歌は以下の通り。
歌:我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽(む)せつつ涙し流る(巻三-453。作者:大伴旅人)
意訳:あなたが植えた梅の木が、こんなにも育っている。それを見るたびに私はあなたを思い出し、胸がつまって、涙を流してしまうのです。
奈良時代には、草木が植えられたり、池が造られたところは「園」や「山斉(しま)」「島(しま)」と呼ばれており、「庭」と区別していたが、平安時代ごろから庭園の意味に転じた。
梅はバラ科サクラ属の落葉低木である。1〜3月、葉が出る前に白、ピンク、紅などの花が咲く。中国が原産で、かなり古い時代から日本でも好まれたようで、万葉集にも多く詠まれているが、万葉集の梅は、すべて白梅と考えられている。
歌:我が園に、梅の花散る、ひさかたの、天より雪の、流れ来るかも(巻5-822。作者: 大伴旅人)
意訳:私の園(庭)に、梅の花が散っています。天から雪が降ってくるのでしょうか。
この歌は、先の歌とは違って、大宰の帥(そち)の任を解かれて天平2年(西暦730年)暮れに平城京に戻ってくる前、つまり、同・天平2年正月13日、大宰帥(そち)旅人は大宰府(だざいふ)の我が館に、山上憶良・小野老(おののおゆ)・沙弥満誓(さみまんせい。※3参照)など、筑紫に住んでいたそうそうたる万葉歌人のメンバーのほか、管下の部下など31人を集めて宴を華やかに催したときに詠まれた「梅花の歌三十二首」中の一首である(※2「たのしい万葉集:」の梅を詠んだ歌、※4:「万葉集を詠む」の梅花の宴を参照)。
ここでは、庭のことを「園」と詠んでいる。当時、梅の花は異国の植物で珍しく、好んで植えられたのだろう。
外国への玄関口でもあった大宰府にふさわしく、もちろん旅人(たびと)の邸宅の庭にも植えられていて、エキゾチシズムな雰囲気を醸し出していたことだろう。
ただ、他の歌が今咲き誇っている梅の花を主題にしているのに、宴を催した会の主人である旅人の歌が、「梅の花散る」景を詠みこむのは奇妙であり、この歌が、目の前の風景を率直に詠んだものではなく、旅人の催した歌の会の目的は、2年前に急逝した妻大伴郎女への鎮魂にあったのではないだろうか。
この席に同席した山上億良(この席での名は、筑前守山上大夫)が詠んだ以下の歌、
「春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ」(万葉集巻5−818)
意訳すると、「春になるとまず咲く我が家の梅の花を、一人で見て春の日を過ごしましょう。」となるのだろうが、この歌には、2年前に妻を失った旅人への、それとない心遣いが現れている。
奈良市内には、1975(昭和50)年以降の発掘調査で奈良国立文化財研究所によって発見された平城京左京三条二坊の宮跡庭園という変わった名の庭園がある。
宮跡という名前がつくが、この地は正確には宮外であり、平城宮近くに広がっていた奈良時代の皇族長屋王邸宅跡とされるところから発見された貴重な庭園遺構である。
坪の中央部の庭園と園池及びその西側の建物群が確認され、奈良時代の庭園のほぼオリジナルな姿を伝えるものとして、国の特別史跡に指定されている。
既に平安時代の寝殿作りの庭園と同じく自然を模して園池には底に玉石が敷き詰められたS字型に屈曲した水流の跡があり、曲水宴で使われたとみられているようだ。
また、公式の宴会や儀式を催し迎賓館としての役割をも担ったとされる、同じ平城宮域内の東院庭園遺構(1967年発掘。※6参照)にもS字の池と洲浜(水辺にできる島形の洲)が築かれていた。
S字の池と洲浜は、日本式庭園つまり、日本庭園固有の特徴であり、既に、この時代には、その様式が確立していたと考えられている。
日本庭園は西洋庭園と違って、「曲線による造形と左右非対称」であることが大きな特徴だといわれている。
18世紀初頭のイギリスで生まれたイギリス式庭園、自然を生かした「風景式庭園」を除けば、西洋の庭園は、花や緑を使いながらも幾何学的な秩序による、人工的な美しさを追求している幾何学式庭園(イタリア式庭園 、フランス式庭園)などである。
これに対し、 日本庭園は、大自然を母体としながらも自然の風景をそのまま庭園に取り入れた「写景的庭園」などではなく、自然のなかの好ましい景観を、好ましい手法によって、理想化して取り入れた「象徴的庭園」であるといえる。
●上掲の画象は、フランス、ヴェルサイユ宮殿の庭園。Wikipediaより)。
現代とは違い、古代の日本の人々は自然と強く共生していた。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか、磐座参照)、神池(神霊の宿る池)・神島(神が宿る島)など、こうした池を掘り、島を浮かべ、石を神と見立て崇める習慣(自然崇拝)があった。
古代中国では不老不死、永遠の生命を求める神仙思想があり、中国や朝鮮半島の庭園では古くからこの神仙思想に基づく庭園がつくられており、日本にも飛鳥時代に伝えられた。
日本に仏教が伝来すると、それまでの自然崇拝が、中国、朝鮮から移入された庭園文化と相まって、独自の日本庭園造りへと発展していったのであろう。
平成11年(1999年)飛鳥京跡で発見された日本で最古の苑池遺構(※7参照) などに取り入れられており、この遺構は、数千?に及ぶ池には底にこぶし大の平石が敷き詰められ、石を積み上げた中島が配されている。
護岸は人の頭大の石を三段に積んだ高さ80cmほどの石垣となっている。
また、「出水の酒船石」(ここ参照)と呼ばれる石造りの流水施設や、池に突き出た涼み床が設けられているのが特徴で、朝鮮半島の百済の園池(庭園と泉水)と、新羅時代の両方の特徴を備えており、当時の政権が進んだ文化を採り入れていることを誇示するために作られた可能性があるといわれている(※9)。
『日本書紀』巻第29、天渟中原瀛眞人天皇 (天武天皇)の14 年(685年)11月6日の条に、天武天皇が、白錦後苑(しらにしきのみその)におでましになった(原文:幸白錦後苑。※8参照)とあり、飛鳥京苑池であるとする説もあるようだが、いずれにしても、これ以後の日本庭園のデザインに大きな影響を与えたといわれる(※9)。
この時代上古以来の神池・神島にも橋が架けられるなどして、次第に庭園的要素が固まってきた。
そして、本格的な日本庭園の歴史は、延暦13年(794年)桓武天皇による平安京への遷都とともに急速に始まったようだ。
都の東・北・西の三方を囲む優美な稜線の山、ほどよく起伏に富んだ地形、大小の清流など、さまざまな自然条件に恵まれた京都は、まさに風光明媚の地であった。
加えて、沼や湿地、湧水が多く、また豊富な庭石にも恵まれた。このような作庭にとって絶好の条件が整った土地柄は、池、流れ、護岸などをつくる技術を発達させた。
平安中期に書かれ、日本最古の庭園書と言われている『作庭記』は、寝殿造りを前提として、立石・島・池・河・滝などの次第を詳述し、後半は立石の口伝・禁忌などを述べ、最後は楼閣の条でおわる。
この書では、冒頭の基本理念に、 “石をたてん事まつ大旨をこころうへき也”として、地形や池の形態を踏まえた制作方針に、実際の自然風景の風情を思い合わせ ること。
次に、昔の名人の作風を規範とし、依頼主の意向を斟酌しながら自分の美意識を発揮すること。
そして最後に、国々の名所の見所を、自分の制作方針に反映させて、大体の風情を、平易にその名所になぞらえることの3つを主張しており、「模倣の美学」、日本の伝統的な「型」 、名所の模倣「見立て」などが重視されている(※10、※11参照)。
また、当時の四神相応観・陰陽五行説が造庭にも重視され、王朝三位以上の高位貴族の邸宅にみられたとされる。
そこに見られる様式は、寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物が南の庭に面して建てられ、庭には太鼓橋のかかった池(遣り水)があり、東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、それらを渡殿(わたどの)でつなぎ、更に東西の対屋から渡殿を南に出してその先に釣殿(つりどの)を設けた。
なお、平安時代の当時の建築遺構は、今日に残っていないとされ、そのため、後世に描かれた絵巻(『源氏物語絵巻』(※12)『年中行事絵巻』(※13)など)や平安時代のことを記したとされる記録、江戸時代に故実に基づいて再興された(紫宸殿、清涼殿)の造りなどから考察されているものだという。
●上掲の画象は、典型的な寝殿造である東三条殿復元模型(京都文化博物館)。
1: 寝殿(しんでん)、2.:北対(きたのたい)、3.:細殿(ほそどの)、4.:東対(ひがしのたい)、5.:東北対(ひがしきたのたい)、6.:侍所(さむらいどころ)、7.:渡殿(わたどの)、8: 中門廊(ちゅうもんろう)、9.:釣殿(つりどの)。画像は、Wikipediaより。
平安時代後期から鎌倉時代になると、末法思想の影響で、極楽浄土の世界を描いた曼荼羅の構図を庭に取り入れた浄土式庭園が発達した。
この様式は寝殿造りの庭園に浄土の世界を現出するような形で発展したもので、京都府加茂町の浄瑠璃寺、宇治市の平等院などの庭がその好例である。
源頼朝により、鎌倉幕府が開かれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立する時代となったが、文化面での主導権は依然として京都にあった。
そのため、武士の進出ととともに興隆した禅宗寺院であっても当初の庭園は浄土式を踏襲した浄土式庭園であった。
13世紀中期の鎌倉において客を迎え入れることが多くなった上層武家住宅では接客のための建物が発達し、座敷(和室)が生まれた。
具体的には、嘉禎2年(1236年)に執権・北条泰時が将軍の御成のために「寝殿」を建てているが、その孫の北条時頼の代には武家住宅の本来の客間であった出居(でい)が発展して寝殿に代わり御成にも使用できる出居が生まれた。
その主室は「座敷」と呼ばれる建築様式であり、これが書院造の原型とされる。
こうして、貴族・武士階級の建築は寝殿造りから書院造りに様変わりしていった。それに伴い、庭園も建物に隣接した書院造りに変わっていく。
書院式庭園は 寝殿造庭園に比べてやや小さく作りも簡素だが、基本的には浄土式庭園に近い形態 が引き継がれている。
また中国から禅が伝わるようになり、日本庭園も大きく禅の影響を受けるようになる。
●上掲の画は、「都林泉名勝図会」巻之一 “相国寺林光院鶯宿梅”である。画像は、以下参考の※15:「平安京都名所図会データべース」の『都林泉名勝図会』巻の一の14頁より借用。
『都林泉名勝図会』(みやこりんせんみょうしょうずえ)は、江戸時代後期の京都の名庭園を網羅したガイドブックであり、庭園の版画がたくさん掲載されているが、多くある名所図会の中でも庭園だけが取り上げられた珍しいものである。
その中に取り上げられた一つ相国寺は、臨済宗相国寺派(※16)の大本山で、近くに「花の御所」を構えた足利義満が創建した寺、京都五山の第二であり、あの有名な金閣寺(正式名:鹿苑寺)・銀閣寺(正式名:慈照寺)も相国寺の塔頭寺院である。
都林泉名勝図会の相国寺解説 (翻刻文,巻之一の15頁文章)には、以下のように書かれている。
相国寺は上古出雲寺(※17のここ参照)とて、伝教大師(最澄)の草創し給う天台の仏刹なり。永徳年中足利義満公禅院として、夢窓国司(むそう こくし)を始祖とし、妙葩禅師(めうはぜんじ)を二世とす。
封域(ほういく)に十景あり、惣門(外構えの大門、正門)の前を般若林といふ。
排門を妙荘厳域と号け、山門を円通といふ、覚雄宝殿とは仏殿なり。
前の川を龍淵水と号し、連池(れんち)を功徳池といひ、天界橋を架(わた)す。
天輪蔵(てんりんざう)を祝?(字不明)堂といふ。洪音楼は鐘楼(しゅろう)にして、此鐘は南都・元興寺(がんこうじ)の鐘なり、中頃鬼神出てこれを撞(つく)といふ。
故に人恐れて撞かずとなん、相国義満公の命によって此の寺に掲(かく)る。
(中略)
塔頭林光院には鶯宿梅(おうしゅくばい)あり、是はむかし西京(西ノ京)紀貫之の家にありしを、清涼殿の前に植えられんとて求給ひぢに、貫之の娘おしみて歌よみければ其侭(まま)かへし給ふ)・・・(以下略)。・・・と。
当時の相国寺の全体図「相国寺図絵全体図」は、※15:「平安京都名所図会データべース」の『都名所図会』の巻之一の11頁 「平安城再刻」で見られる。
この説明文にもあるように、現在の開山堂は桃園天皇の皇后である恭礼門院の女院御所内の御殿を文化4年(1807年)に下賜されたものであり、その前に広がる庭園は江戸時代後期の枯山水庭園である(※18参照)。
ここに出てくる夢窓国司(=夢窓疎石)は、室町時代における禅宗発展の基礎を築いた人物であり、多くの門弟を育て、その数は1万人以上であったと伝えられているそうだが、単に、それだけではなく、注目すべきは、その作庭によっても広くその名を知られていることだという。
「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている西芳寺(苔寺の愛称で知られる)及び、天龍寺(京都五山の第一位とされてきた)のほか、多くの庭園の設計でも知られている。
因みに、この西芳寺を模して創られたのが足利3代将軍義満の鹿苑寺(金閣寺)と8代将軍義政の慈照寺(銀閣寺)である。この二つの名園は、ともに中島を配した池を中心とした浄土式のデザインをみせている。
平安から鎌倉時代を通じて培われた美の伝統を受け継ぎつつ、新しい禅宗風の造形感覚を加味したものである。
枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式である。
例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水であるが、石の表面の紋様で水の流れを表現することもある。
抽象的な表現の庭が室町時代の禅宗寺院で隆盛を極め、枯山水庭園が発達した。枯山水自体は既に平安時代からあったものだが、室町時代に禅寺の方丈、庭園で発展し、独立した庭園としての地位を確立した。
●上掲の画象は、龍安寺の方丈庭園(石庭)と龍吟庵 東庭(赤砂の枯山水)。Wikipediaより。
安土桃山時代になると、戦国大名が力を誇示するために競い合って作庭された。
豊臣秀吉が醍醐の花見に際して造った醍醐寺の三宝院庭園は、自らが基本設計を行なったという。
作庭開始後、4か月後に秀吉はなくなるが、醍醐寺座主の義演は、秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を参加させ、義演が亡くなる元和10年1(624年)までの27年間にわたって石をふんだんに使った贅をつくした庭が造られた。
また、逆に、千利休によって侘び茶が大成され、茶室に至る露地の様式が完成。飛石、手水鉢(ちょうずばち)、石灯籠(どうろう)、潜(くぐ)り戸、木戸、腰垣、植栽などが配置された今日見られるような茶庭(茶屋に付属した庭)という体裁がしだいに整えられていった。
江戸時代初期は、しばしば王朝風と呼ばれる平安時代以降の伝統的な、または安土桃山時代に発達した豪華絢爛な池庭や枯山水、あるいは禅院で発達した枯淡な枯山水や露地から出発し、書院造に影響を与える茶庭など多くの様式が並存する時代であったが、将軍や大名などを中心に、城や屋敷を築く際にこれらの様式を集大成させた回遊式庭園を誕生させた。
これら大名庭園の多くは大池泉のある、回遊及び舟遊式であり、ポイントに四阿(あずまや、しあ。東屋とも)、茶亭(茶室)、橋を設け楽しみながら園内を回遊できる総合庭園であった。
大名庭園の代表的なものに、金沢の兼六園、東京の小石川後楽園、水戸偕楽園、岡山の後楽園、高松の栗林公園などが知られている。
中後期になると作庭方法を記した『築山庭造伝(前編)(後編)』が出版(※21参照)され、庶民の住まいにも庭が造られるなど一般化していったようだ。
元禄時代以降は鑑賞を目的として植物を栽培する園芸文化も成熟し多くの園芸書が出版されるようになると、植木職人はウメ、サクラ、ツバキ、アサガオなどを競って育種し、庶民の間でも大いに流行った。
一般庶民の中でも経済的にゆとりのある町家にも庭が作られるようになり、屋敷内の建物や塀などで囲まれたごく限られた空間の中で露地的な考え方を導入した壺庭(坪庭)というものが発達した。
明治時代になると力を付けた実業家や政府高官などが多くの庭園を造るようになり、また、芝生面を広くとった明るい庭も多く作庭されるようになった。
そして、この時代から、西洋の整形式庭園の影響を受けた庭園も現れた。東京新宿の新宿御苑や、わが地元神戸市須磨区の須磨離宮公園(冒頭の画像)がそれだが、和洋析衷式のものとなっている。
四季の変化がある日本では、私の家のような小さな坪庭でも、立地が山の麓であることから、四季により鶯やメジロ、ヒヨドリ、シギなどが来てくれるし、花は咲かなくても青く茂った木を見ているだけで心が癒される。
しかし、あの阪神・淡路大震災で、私の家の周辺でも多くの家が損壊し、家を建て直しているが、多くの家の庭から、植木が姿を消してしまった。
そして、新しい家では植木のない草花中心のガーデニングのみとなったところが多くなった。
やはり園芸も植木があってこそのものだと思うのだが・・・、ちょっとさみしい気がする。
「庭」については書きたいことがまだまだあるのだが、今回はこれくらいにして、またの機会にもう一度書いてみようと思う。
何か中途半端になったが、今日はここまでとする。
※1:(社)日本造園組合連合会(略称:造園連)
http://www.jflc.or.jp/
※2:たのしい万葉集: 巻ごと
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
※3:千人万首
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html
※4:万葉集を詠む
http://manyo.hix05.com/index.html
※5:奈良歴史漫歩 No.057平城京左京三条二坊宮跡庭園
http://www5.kcn.ne.jp/~book-h/mm060.html
※6:東院庭園 - 平城宮跡 - 奈良文化財研究所
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/toin.html
※7:飛鳥京跡苑池遺構
http://www.bell.jp/pancho/travel/asuka-ji/enti_iseki.htm
※8:日本書紀
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※9:中田ギャラリー日本庭園を愉しむ
http://muso.to/index.html
※10:作庭記
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/sakuteiki/sakuteiki.html
※11:前田家 名物裂の精華 - 石川県立美術館
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/tayori/2001/tayori_09/tayori_syosai09_1.html
※12:寝殿造 貴族の住空間・貴族の生活・風俗博物館〜
http://www.iz2.or.jp/kizoku/
※13:京都大学文学部所蔵『年中行事絵巻.』
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B4%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E7%B5%B5%E5%B7%BB
※14:京都大学電子図書館:夢窓疎石
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/np/soseki.html
※15:平安京都名所図会データべース(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html
※16:臨済宗相国寺派のHP
http://www.shokoku-ji.jp/h_siryou_ume.html
※17:文化史01 遷都以前の古代寺院 - 京都市
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka01.html
※18:相国寺 裏方丈庭園、開山塔庭園 | 京の庭を訪ねて | 京都市都市緑化協会
http://www.kyoto-ga.jp/kyononiwa/2009/09/teien015.html
※19:夢窓疎石と作庭
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/nihongaku/musou.htm
※20:世界遺産京都醍醐寺:境内案内
http://www.daigoji.or.jp/garan/sanboin_detail.html
※21:公開: 作庭書
http://www.nakatani-seminar.org/kozin/niwa/welcome.html
近代デジタルライブラリー - 増補宮殿調度図解(関根正直) 1/2
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/bun1927_sek_01.htm
庭園用語集 - IFNET
http://www.ifnet.or.jp/~chisao/yougo.htm#l
考古情報の部屋
http://www.ne.jp/asahi/musica/rosa/index2.html
壺 齋 閑 話>大伴家持>花鳥の歌
http://blog.hix05.com/blog/2007/04/post_162.html
庭 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD