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薬の日

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5月5日は「こどもの日」だが、他に・チーズケーキの日、・フットサルの日、・児童憲章制定記念日 ・オモチャの日、わかめの日 ・レゴの日といろいろある。
このうち、・児童憲章制定記念日 ・オモチャの日わかめの日レゴの日のことは、このブログで書いたが、このほかにも「薬の日」があった。
この記念日は全国医薬品小売商業組合連合会(※1)が1987(昭和62)年に制定したもので千年以上も昔の故事に由来しているのだという。
日本書紀』巻第廿二推古天皇19 年(611年)夏5月5日の条に、推古天皇は、百官を率いて、奈良県の兎田野(うだの)で、鹿茸(ろくじょう※2参照)と薬草を採取する薬猟(狩)りをした旨以下のように記されている。

「十九年夏五月五日。薬猟於兎田野。取鶏鳴時集于藤原池上。以会明乃徃之。粟田細目臣為前部領。額田部比羅夫連為後部領。是日。諸臣服色、皆随冠色、各著髻華。則大徳。小徳並用金。大仁。小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。」(原文:以下参考※3参照)

読み下し文(岩波書店 日本古典文学大系『日本書紀下』より)
「十九年の夏五月の五日に、兎田野(うだのの)に薬猟(くすりがり)す。鶏鳴時(あかつき)を取(と)りて、藤原池(ふじはらのいけ)の上(ほとり)に集(つど)ふ。会明(あけぼの)を以(も)て乃(すなは)ち徃(ゆ)く。粟田細目臣(あはたのほそめのおみ)を前(さき)の部領(ことり)とす。額田部比羅夫連(ぬかたべのひらふのむらじ)を後(しりへ)の部領(ことり)とす。是(こ)の日(ひ)に、諸臣(もろもろのおみ)の服(きもの)の色(いろ)、皆(みな)冠(かうぶり)の色に随(したが)ふ。各(おのおの)髻華(うず)著(さ)せり。則(すなは)ち大徳(だいとく)・小徳(せうとく)は並に金(こがね)を用ゐる。大仁(だいにん)・小仁(せうにん)は豹(なかつかみ)の尾(を)を用ゐる。大礼(だいらい)より以下(しも)は鳥(とり)の尾を用ゐる」

薬猟の一行が集合したとされる藤原池は、推古天皇15年(607年)の冬に新しく造られた四つの池(高市池、藤原池、肩岡池、菅原池)の一つであり、現在の明日香村小原にあっと想定されているようだ。
また、薬猟が行われた菟田野は、現在の奈良県宇陀郡にあった1大宇陀町迫間あたり、あるいは天武持統朝のころ皇室の狩り場とされた阿騎野(あきの)あたりだったかもしれないが確証はないようだ。

持統6年( 692年)冬の一日、文武天皇となる前の軽皇子(草壁皇子[天武天皇第二皇子、母は持統天皇]の長男)の伴で阿騎野の地を訪れた柿本人麻呂が以下の歌を残している。

「東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」万葉集巻1−48

歌の中に出てくる「かぎろひ」とは厳冬のよく晴れた日の出前、東の空を彩る陽光のこと。
奈良県宇陀市大宇陀迫間(旧大宇陀町域)に鎮座する 阿紀神社のすぐ近くの万葉公園(かぎろひの丘) には、人麻呂の上記歌碑も建てられており(※4の万葉歌碑のここ参照)、人麻呂が、「かぎろひ」を見た陰暦11月17日、この場所で「かぎろひを観る会」が開かれているようだ。園内には万葉植物も植栽されている。
平成7年(1995年)の発掘調査によって、丘の下からは阿騎野が古代の狩場だったことを示す遺跡が発掘されたとして、大宇陀町では保存整備委員会を発足させ調査された「中之庄遺跡」の遺構を復元保存し、阿騎野・人麻呂公園として保存されている。

しかし、この万葉集巻1−48の歌の名調子を生み出したのは、江戸時代の国学者・歌人賀茂真淵であるが、この歌の「かぎろひ」は原文では「炎」であり、江戸時代までは、
「東野炎立所見而反見為者月西渡」(読み:あずまのの けぶりのたてる ところみて かへりみずれば つきかたぶきぬ)であり、「東野」は地名、「炎」は「けぶり(煙)」で、「野火の煙が立つのを見た」と言うのである。
これは宇陀の阿騎野から東方に続く高原地帯で行われていた焼畑の夜の野焼きの火が終わり近くなって着ける向かい火とぶつかって高く立ち上がるのを人麻呂は見たのではないだろうか?という意見(※5)もあるなど、説はさまざまな様あり、今、万葉学の最先端ではこの読みでよいのかは疑問があるらしい。

推古天皇19年(611年)夏5月5日の条にあるように、この日は節日であり、当歌の遊猟も薬猟である。そして、史料で確認できるわが国最初の薬猟の記録でもある。
日本の薬猟は大陸伝来の行事で男子は鹿茸(若鹿)をとり、女子は薬草を摘んで長寿や健康を願う儀礼とするのが通説であるが、詳細については不明な点も多いようだ。
荊楚歳時記』には五月五日を「悪月」とし、さまざまなを避ける呪術が行われたことが記され、((五日)是の日、競渡し、雑薬を採る」とあるが、鹿茸を取ることは記されない。
一方、『三国史記』に「高句麗常に三月三日を以て楽浪の丘に会猟し、猪鹿を獲て、天及び山川を祭る」とあり、日本の薬猟で鹿を狩ることは高句麗の影響によるのではないかという。
歴史学者、京都教育大学名誉教授和田萃(わだ あつむ)はこれをふまえ、「日本古代の薬猟は、古代中国で行われていた五月五日の採薬習俗に起源を有するが、薬物としての効能をもつ鹿などを狩る行事は高句麗で成立し、それが推古朝に受容された」という(※6参照)。
推古天皇11年12月5日(604年1月11日)に始めて制定された冠位「冠位十二階」の冠名はを初めに置き、以下に、仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり、おのおのを大・小に分けて、朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けたものである。
菟田野への薬猟では、冠位十二階にもとづく冠をつけ、冠と同色の服を着用し、冠には飾りを用いた。
推古朝に、源流が異なる行事を併せて壮麗な宮廷行事となっていった日本の薬猟は道教に由来するものと思われるという。
推古19年の宇陀野での薬猟に続き、翌・推古20年(612年) 5月5日には羽田で薬猟が行われている。以後『日本書紀』には、推古22年(614年)、と天智7年(668年)の5月5日に薬猟を行ったと記載されるのみであるが、宮廷儀礼として毎年5月5日には、薬猟が行われていた(※3参照)のでその後、薬狩りは恒例行事となったようだ。
その後、冠位・位階制度の変遷を重ねた後、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制創造の政策の一環として天武天皇13年(684年)10月に、新たに制定したものが八色の姓(やくさのかばね)であり、これは「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つのの制度のことであるが、姓の中に真人(まひと)、道師と言うのものがあるが、これは道教で道を究めた人を意味する真人(しんじん)や、道教の道師(どうし)と関係があるのだろう。

端午(たんご)の節供(節句)は5月5日だが、端午の「」は、「立+耑」で構成された象形文字であり(※7参照)、たつ+目印の山=>目印の山にたつ=>出発点にたつ=>はじめ=>はしっこ・・・などを表している。
旧暦では午の月は五月にあたり(十二支を参照のこと)、このの月の 端( はじめ )の午(うま)の日を 節句として祝っていたものが、中国の時代から三月三日、九月九日などのように月と日を同じ数にすることが好まれ、端午が五月五日に定着したようだ。五が重複するので、重五・重午(ちょうご)ともいう。
また、前にも書いた『荊楚歳時記』に見られるように、古代中国では、五月は物忌みの月とされていたので、邪気を払ういろいろな行事が行われていた(※9参照)。
実際に、旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、蒸し暑くて虫などに刺されて病気になり易かった。そこで高い薬効と強い香りを持つヨモギが魔除けや虫除けに使われ端午行事に欠かせないものとなった。

天平感宝元年(749)年5月、越中守に任ぜられtた大伴家持の館で、上京の任を終えた朝集使の労をねぎらう詩酒の宴が催された。席上、主人である家持は次のような長歌を披露した。(万葉集巻18- 4116番の長歌の一部抜粋。(以下参考の※10参照)。

読み下し文:「ほととぎす 来鳴(きな)く五月(さつき)の あやめ草(ぐさ) 蓬(よもぎ)かづらき 酒(さか)みづき 遊び和(な)ぐれど、・・・」
意訳:「ほととぎすの来て鳴く五月のあやめ草やよもぎをかずらにして、酒宴をしては遊んで気を紛らそうとするけれど、・・・」
原文:「保止々支須 支奈久五月能 安夜女具佐 余母疑可豆良伎 左加美都伎 安蘇比奈具礼止 」
読み:「ほととぎす きなくさつきの あやめぐさ よもぎかづらき さかみづき あそびなぐれど 」

ここであやめぐさと言っているものは、現在のサトイモ科のショウブ(和名:菖蒲/別名[漢名]:白菖[ハクショウ])のことで、今のアヤメ科のアヤメハナショウブとは異なる。湿地に群生し、初夏に黄色い小さな花をつける。
万葉の時代から、端午の節供には、邪気を払うためにこの草やヨモギ(蓬)の葉などを編んで、薬玉(くすだま)をこしらえ、これに5色の糸をつらぬき、またこれに、ショウブやヨモギなどの花をさしそえて飾りとした。

続日本後紀』卷十九(※11)仁明天皇嘉祥2年(849年)5月5日の項に「薬玉」とあるのが最初とされている。また、ショウブで頭飾として(かずら)を作った。
平安時代に宮中ではこの日、薬玉を下賜し、諸人肘(ひじ)にこれをかけて長命のまじないとした。また5月5日端午の節供に薬玉を柱などにかけておき、9月9日重陽の節供(菊の節供)に菊花を絹に包んだものと取り替える風習があった。そして、貴族間では当時贈答も行われていた。・・・ことなどが『枕草子』の「節」の段(※12)に詳しく書かれている。
ヨモギ(蓬)は、原文では「余母疑」と表記されているが、このような日本のヨモギの習俗は、中国伝来と考えられ『荊楚歳時記』には、次の記載がある。
「五月五日、之を浴蘭節と謂う。四民並びに蹋百草の戯あり。艾を采りて以て人を為り、門戸の上に懸け、以て毒気を禳(はら)う。菖蒲以て、或いは鏤(きざ)み、或いは屑(こな)とし、以て酒に泛ぶ」・・・・と(※13【 よもぎ】参照)。

「浴蘭節」とは蘭の風呂(現在では菖蒲湯のこと)また、「蹋百草」というのは「百草」を蹋(蹋=足偏+日+羽。ふんで)邪気を祓う行事で、日本では「茅の輪(ちのわ)くぐり(大祓参照)として今に伝わっている。
日本ではヨモギには「蓬」の字をあて、「」にはもぐさの訓みをあてている。中国語では「艾(アイ)」はヨモギを指し、「蓬」の字は『辞海』では「飛蓬(Erigeron acer )」和名:エゾムカシヨモギであるとし、『現代中国語辞典』(光生館)では「ヤナギヨモギ」だとしているなど、「蓬」は日本と中国では別の意味をもつ、同文異種の漢字のようだ。
『荊楚歳時記』には、「五月五日は、芳香(蘭)を浴びる浴蘭節である。この日に草摘みをし、辟邪・辟病のためヨモギ人形を門戸に飾り、ショウブ酒を飲む」とある。
端午の節句に菖蒲やヨモギを束ねて軒先に吊るしたり、風呂に入れて邪気を祓う風習が奈良時代に「夏越(なごし)」の行事として伝わったが、今ではヨモギよりも菖蒲湯の方が一般的になっている。
菖蒲の節会については、『続日本紀』天平19年(747)5月5日条に
原文:「庚辰。天皇御南苑、観騎射・走馬。」是曰。太上天皇詔曰。昔者、五月之節、常用菖蒲為縵。比来、已停此事。従今而後。非菖蒲縵者、勿入宮中。」(以下参考の※14:「続日本紀」巻第十七参照)。
意訳:「庚辰、天皇、南苑に御(おは)しまして、騎射・走馬を觀(み)そなはす。是の日。太上天皇詔して曰はく、「昔者、五月の節には常に菖蒲を用て縵(かづら)となす。比來(このころ)已(すで)に此事を停(や)めたり。今より後。菖蒲(あやめ)の縵(かづら)に非ずは、宮中(うち)に入るること勿れとのたまふ。」
とあり、聖武天皇のとき、それまで中断されていた節会の菖蒲縵の着用が復活したことを示している。

ヨモギに関する習俗は奈良時代に中国から招来され、端午の当日、朝はヨモギ(蓬)を玄関の前に飾り、夜はヨモギの入ったお湯で入浴するという風俗が築き上げられていた。
それが日本古来の田植え前の5月行事と結びつくようになり日本風のものに変容されていった。
田植え前の5月行事は、もとは女の祭りであった。田植えを行う5月(旧暦)は早苗の月(今は皐月[さつき])と言い、農耕が基本となる農業社会の日本にとって1年の中で一番重要な月とされていた。

その昔日本の農村では、この時期に田植えを行うのは生命を産み出す女性の役目で、の豊穣を祈るために、田植えが始まる前の晩には早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘達が田の神(稲の神)を迎えるために、菖蒲や蓬で葺(ふ)いた小屋にこもって身を浄(きよ)め「忌み籠り」(=斎戒)をしなければならいといった風習があった。
これを「五月忌み」(さつきいみ)と言い、忌み籠りする女性達は、この日には菖蒲で亭主の尻を叩いて家から追い出し、菖蒲や蓮で浄化された家に女性だけで籠ったので「女の家」とも言われた。
昔は男性に従う一方だった女性がこの日ばかりは威張っても良い日とされ、上座に座ることが許されるなど、特別な日とされていたようだ。
そして、菖蒲打ち(菖蒲の束で地面を叩き、音の大きさを競うこと)、印地うち(石合戦)、流鏑馬(疾走する馬の上から弓で鏑矢を地面に置かれた三つの的を次々矢を当てるという競技「騎射三物」参照)といった「男らしい」行事が行われ、菖蒲湯に入ったり、家の中に五月人形を飾ったり、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てたりする日本の端午=子供の日(五節句(供)のひとつ)が完成したのである。

●上掲の画象は、歌川国貞(落款印章 香蝶樓國貞画)『五節句ノ内 皐月』大判/錦絵3枚続きの中の1枚である。国立国会図書館蔵。(ここ の向かって右から3枚目をクリックすると拡大図が見れる。)
軒先に菖蒲をさし、女性が菖蒲湯につかっている。

鯉のぼりや五月人形、そして菖蒲は日本の端午の節句を彩る品目であり、それぞれに重要な意味を持つている。
「鯉のぼり」は中国の伝説「鯉魚躍竜門」(鯉の滝登り)から由来したもので、どんな悪い環境でも一生懸命に生きようとしているので、「鯉のぼり」は子供が鯉のように立派な人になってほしいという親の願いの現れである。
また、鯉のぼりの色にも特別の意味があり、吹き流しの五色については古代中国の「五行説」に由来しており、幼児が無事に成長するように「魔除け」の機能を備えている。
「五月人形」は、兜や鎧や刀を身につけた武士の人形が普通だが、甲冑だけを飾る場合もある。本来、悪鬼や災厄を祓うのが目的で、屋敷の中や門の前に兜、槍や長刀などを飾っていたが、庶民は本物の武具などは持っていないことから、最初は厚紙等で兜屋武者人形を作って飾っていた。これが五月人形の始まりである。
しかし、魔除けの符として、「菖蒲」は最も重要である。
菖蒲には様々な使い方がある。解毒作用のある医薬として、または打ち身にも効く薬草として古くから珍重されえきた。
お風呂に入れることで体を清め、疲れを除くこともできる。お酒として飲まれ、中国のヨモギと同じカテゴリーに属している。
中国の節句にはそれぞれに典故があり、端午の節句としての意義には「記念性」と「夏の衛生」の二つに区別されるが、前者には三つの転故、「屈原伝説」「鍾馗伝説」「白蛇伝」・・があるといわれているが、この三つの典故の中では、「屈原伝説」が最も有名である。
その屈原は、中国春秋戦国時代を代表するの国の詩人であるだけでなく、政治家としては国だけでなく人民も大切にする「」と「」を主張して張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。それが旧暦の五月五日だったという。
後に民衆が屈原の無念を鎮める為、また、亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとして端午の節句の日(端午節)に、笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったのがちまきの由来とされている。
また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出した」・・・という故事が由来であると伝えられている(Wikipedia)。
「鍾馗伝説」(鍾馗参照)から中国では、厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。
それが、日本に伝わり、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになったという。
白蛇伝」はかなり古くから小説や戯曲などの題材とされてきた物語である。
人との恋愛を語った民間説話白蛇の化身である女性が中心人物で、人間の男性と恋に落ち夫婦となるが、正体が知られ退治されるという異類婚姻譚が物語の大きな枠組み。
四川省・峨眉山の上にある清風洞に住む白蛇の精白娘子は、お供の青蛇の精と共にお嬢様の白素貞と下女の小青に変身して人間界の西湖に観光に来て、人間界に住む書生の許仙と出会い相思相愛の仲になり二人は結婚し、幸せな家庭を築いて、薬屋を開いて幸せに暮らし始めたが・・・。
この物語では、金山の住職法海が白娘子を蛇の妖精だと見抜いて、許仙に「あなたの妻は蛇の妖精だ」と告げ、五月五日・端午の節句の日に、素貞に雄黄の入れた酒を飲ませれば、彼女はもとの姿に戻るはずだと教える。白子は雄黄酒を飲んだ直後に、正体の蛇の姿に戻り、許仙と離れ離れという悲しい結末を迎える・・・。白蛇伝に興味のある人は以下を詠まれるとよい。

媛媛講故事白蛇伝 ?白蛇伝 ?白蛇伝 ?

以後、中国では、端午の日に大人は魔除けのために雄黄酒を飲み、幼児の額に雄黄酒で王の字を書くという風習が出来たという。
また、門前に艾草を掛けて災厄を避ける風習が流行したのは、広州の民間伝説によると黄巣の乱(紀元875-884)から来ているという(※15参照)。
端午の日に、雄黄酒を飲んで魔よけをする習慣は、古くからあったようで、かつて、この酒には微量ながら砒素を含む鉱物を使ってたようだが現代の人々が飲むのは似せて作った酒のようだ。
日本でも、中国の故事にならって、菖蒲酒が飲まれるようになったのではないか。

日本の端午は鎌倉時代から、もう一つの「菖蒲の節句」で名で呼ばれるようになった。
菖蒲の節句と呼ばれたのは、「尚武精神」が理由である。当時では武士や軍事思想が盛んであり、男の子は皆武士になりたいという思いがあった。菖蒲は端午の節句にとって欠かせないものであるし、菖蒲の初音「しょうぶ」は尚武と勝負と同じなので、「菖蒲の節句」という別称を持った。
また、菖蒲の葉の形は剣の形に似ているので、子供たちはそれを武士の剣として遊んでいたようだ。菖蒲=尚武の節句となると、武家では将来立派な武士になるようにと、生まれた男児に兜や太刀を贈った。
江戸時代にはさらに幕府の重要な式目として定められ、将軍に対して、大名や旗本が将軍にお祝いを奉じる儀式を執り行い、将軍の世継ぎが生まれると、表御殿(公の政務・儀式などを行う正殿)の玄関前に馬印や幟を立てて祝った。この儀式がその後武家の男児誕生のお祝いに結びつき、やがて、
下級武士までもが武具やを飾るようになり、安政年間になると庶民がそれを真似て、今の鯉のぼりを飾る習慣となったようである。
この様に菖蒲=尚武の節句は武士を重んじる思想の背景となっている。武士道は「武士の戒律」であると共に道徳規範でもあり、武士たちは、それを守らなければならなかった。そして、それは不言不文の語られざる掟、書かれざる掟でもあった。
武士道は仏教神道から大きな影響を受けているが、源は孔孟の教えであり、知識を行動と一致させよという中国明代の儒学者、思想家である王陽明の「知行合一」の実践であった。
そして、また、自分の命は主君に仕えるための手段と考え、従属関係を重視し、主人に対する忠誠、先人に対する尊敬、両親に対する孝行など、それを遂行する名誉が理想の姿だった。
農学者・教育者そして倫理哲学者でもある新渡戸稲造は武士の徳を義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義に分類しているが、これらの徳目の中でもとりわけ「義」「忠義」が武士道の代表的な精神とされている(※16参照)。

つまり昔の日本では、端午の節供は今のような男の子のお祭りではなく、田植えに結びついた女性のお祭りであった。それが現在のように男の子の節供という一面のみが強調され定着していった背景には、菖蒲」が「尚武」に通じるとして、江戸時代には、幕府は5月5日を重要な日として定める。そして、5月5日には、大名や旗本が式服でお祝い品等を携え、江戸城に出向くようになった。
これ以降、武家の間で菖蒲を軒に挿したり、馬印や幟(のぼり)や兜や鎧を飾り、男児の誕生や成長を祝う習慣が生まれた。当時男児の誕生は、非常に目出度いことであった。
この風習が、次第に裕福な庶民の間へと拡がりを見せていった。庶民は、幟旗を立てることは許されていなかったため代わりに盛んに鯉のぼりをあげるようになり、やがて庶民は、端午の節句に、鯉のぼりだけでなく紙の兜や人形を作るようになり、武者人形などに発展していった。

男児の祝いものとして飾られる鯉幟(のぼり)、武者人形や武者絵、刀や兜、甲冑類の武具、それに菖蒲と柏餅・粽(ちまき)などのお供物(くもつ)など、現在の端午の節供を形成する主要な要素はだいたい江戸時代にほぼ全てが出揃い、また、この日には相撲や凧揚げ、船による競争(競漕)といった勇壮な行事が多く行われるようになった。
ちなみに、幟には、中国の故事で災厄を祓う魔除けの神とされていた「鐘馗(しょうき)」を描いたものが多かったようだ。
また、男児たちは、菖蒲の葉を平たく編んで棒のようにし、地面に叩き付け、音の大きさを競う遊び「菖蒲打」をして楽しんだ。
上掲の画象は、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人歌川国芳の揃物「稚遊五節句之内(ちゆうごせっくのうち) 端午」の中の1枚である。(画像は、プーシキン国立美術館所蔵浮世絵コレクションより)。
節句の日に菖蒲を刈り取り三つ編みにして地面にたたきつけ、音の高さを競う遊び「菖蒲うち」に懸命の2人。
鯉のぼりを持ち指さす子供、関羽の持つ青龍刀を担ぐ子供が描かれている。

かっては、薬草を摘み、艾(よもぎ)の人形を門戸にかけ、菖蒲湯で沐浴して、薬を祓ったこの日も、今では、単なる「こどもの日」。
昭和23年に「国民の祝日に関する法律」で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日となり、男女の別なくお祝をする日になった。子供の日は、五節供の中では唯一の祝日であるが、祝日と言っても、鯉のぼり一つを見るのも目面しくなり、今日も、子供の日としての行事などほとんどなく、大方の人は単なる旅行やお遊びのための連休の中の1日となっていることだろう。
どこの行楽地もごった返していて、お母さんも感謝をしてもらうどころか、お父さんとともに、子供へのサービスでくたくたになっていることだろう推測する。せめて、今日は、菖蒲湯ぐらい入ってくつろいでくださいね。


参考:
※1:医薬全商連
http://www.zsr.or.jp/
※2:東苑漢方:鹿茸(ロクジョウ)
http://www.toyi-net.com/herbs/rokujo.htm
※3:日本書紀、全文検索
http://www.seisaku.bz/shoki_index.html
※4:うだ記紀・万葉
http://www.city.uda.nara.jp/udakikimanyou/
※5:万葉集の名歌の真実〜柿本人麻呂の歌(Adobe PDF)
http://seihoku-rotary.main.jp/visitor/pdf/takuwa/20100315t.pdf#search='%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86%E5%B7%BB1%EF%BC%8D48+%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82++%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5'
※6:紫野の贈答歌(Adobe PDF)
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kimura33.pdf
※7:象形字典:耑的象形字
http://vividict.com/WordInfo.aspx?id=3257
※8:象形文字の秘密 「立」の字を解読
http://shoukei.blog65.fc2.com/blog-entry-91.html
※9:五月五日の詩宴 : 天智天皇七年の肆宴につ いて - MIUSE - 三重大学
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/6468/1/AN101977030050007.pdf#search='%E4%BA%94%E5%85%B5%E3%82%92%E8%BE%9F%E3%81%91%E3%82%8B'
※10:高岡市万葉歴史館web万葉集:読んでみよう越中万葉
http://www.manreki.com/manyou/
※11:続日本後紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shokukouki.html
※12:枕 草 子
http://www.geocities.jp/sakurasoushi/makura.html
※13:「食物本草歳時記」
http://www.occn.zaq.ne.jp/ringo-do/syokumotu.htm
※14:続日本紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoku.html
※15:雄黄酒を飲む - 広州市政府ポータルサイト
http://www.gz.gov.cn/publicfiles//business/htmlfiles/cngzrw/s5568/201102/768554.html
※16:新渡戸稲造著・武士道の要点整理 -
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/d37b97b8676d8c2be032062a79a8dbd7
くすりの博物館
http://www.eisai.co.jp/museum/index.html
アヤメの語源
http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/a/ayame.html
訓読万葉集
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/manyo_k.html
第十講:武士道
http://www.heisei-shin.com/writings_box/religion_page/religion_30_1.html
DonPanchoのホームページ
http://www.bell.jp/pancho/
くすりの博物館
http://www.eisai.co.jp/museum/index.html
野津隆司の世界へようこそ!医療と薬の歴史
http://www003.upp.so-net.ne.jp/nozu/history.htmlhttp://www.bell.jp/pancho/

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