今日は何を書こうかと、何時も参考にしているフリー百科事典で今日の記念日を検索していると、女優・木暮実千代 (1918年1月31日 - 1990年6月13日)の忌日、また、江戸時代初期の剣術家・兵法家宮本武蔵(天正12年=1584年? - 正保2年5月19日=1645年6月13日)の忌日があった。
さて、今日はどちらをテーマーに書こうかと思ったのだが、宮本武蔵は余りにも歴史的に有名な人物であることから,私も、今までにこのブログで、「英治忌(宮本武蔵」の吉川英治の忌日)」、「決闘の日」、「NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日」、「巖流・佐々木小次郎(剣術家) が 宮本武藏との巖流島での決闘で敗死」などのタイトルで、武蔵関連のことを書いてきたので、改めて宮本武蔵その人のことを書くのはまた、別の日にして、今日は、女優・木暮実千代のことについて書いてみようと思う。
宮本武蔵と木暮実千代の忌日が同じ日と言うことからある映画を思い出した。それは、吉川英治の小説『宮本武蔵』を映画化したものであるが、同氏の小説を題材にした武蔵物の映画は数多く制作されている中で、木暮実千代が良い味で出演していた作品で私の記憶に強く残っているのは、内田吐夢監督が、中村錦之助(萬屋錦之介)主演で映画化した東映映画の「宮本武蔵」であり、全5部作の大作であった。
1961(昭和36)年に公開された第1作では、新免武蔵(たけぞう)(俳優:中村錦之助)が沢庵宗彭の導きにより、姫路城天守で3年間の幽閉生活を送るまでを描いている。
ストーリー(詳しくは※1参照)
慶長5年9月、関ヶ原の合戦で西軍豊臣方は惨敗に終った。作州(美作の異称)宮本生れの郷士の伜、新免武蔵と本位田又八(俳優:木村功)は野望を抱いて関ヶ原の戦いで西軍に加わったが、傷ついて山中で暮らすもぐさ家のお甲(俳優:木暮実千代)とその養女朱実に救われた。この母娘は戦場荒しを稼業とする盗賊だった。ある日、お甲の家を野武士辻風典馬の一隊が襲った。武蔵は典馬を殴殺し、又八は手下を追いちらした。そんな二人にお甲の誘惑の手がのびた。又八は許嫁お通(入江若葉)を忘れ、お甲とともに姿を消した・・・。
同映画の武蔵も又八も心の弱さを持つ人間であった。この点はいみじくも沢庵和尚の言葉がずばりと言い当てている。
又八と別れ、国境の木戸を破って故郷の宮本村に逃げ込んだ武蔵だが役人に追われ次第に狂暴となり、山の中に隠れていた。そんな武蔵をとらえるために、お通一人を伴って,山中で,火を焚き鍋をかけて,武蔵を待つシーンがあった。そうして武蔵を捉えると約束した期限の3日目の夜「こうしてここに座ったままでいてよろしいのですか」と心配そうに尋ねるお通に対して,沢庵は、「人間の心は実は弱いものなのだ。孤独が決して本然なものではない」と言いながら,武蔵がこの温かい火の色を見て,必ずこの場所に姿を見せることを確信していたが、その通り、武蔵が現れ捉えられる。映画第1部のクライマックスの一つであった。
闘争心によって内面的な心の弱さを克服しながら生きている武蔵。暴れん坊だが、本当は寂しがり屋で、愛情に飢えた孤独な若者である。それを錦之助は実に魅力たっぷりに演じている。野性的で荒々しいが、その半面、優しさとナイーヴさも備えている錦之助の演じる武蔵は、人間的に成長し後年の宮本武蔵へと成長してゆく。そうした「剛と柔」の両面を錦之助が素晴らしい演技で見せてくれる。本当にいい役者だった。
一方の、又八は、心の弱さに負け、年上の女の色情に溺れながら、転落していく。又八には、故郷の村に年老いた母親(お杉ばあさん)と可憐な許婚(お通)が居る。それなのに、後家のお甲の誘惑に負け、自らの性欲を衝動的に満たしたがために、人生の道を踏み外してしまう。ウジウジしたヤサ男の又八を演じた木村功がまた何とも言えず、悲哀さえ感じさせる好演だった。
ストーリーの必然として又八をお甲の愛欲に溺れさせなければならなかったから、木暮実千代としては年増(この時木暮43歳)の色香を見せつけるように演じたのだろうが、お甲(木暮)が又八の負傷した太股に焼酎を吹きかけ、むしゃぶりつくようにして口で膿んだ血を吸うシーン。この部分は原作にはないのだが、映画独特の見事な描写である。色気たっぷりで欲求不満のお甲が、若い男の太股の血を吸っているうちに、発情して童貞の又八を犯していく様子がすさまじく、極めてエロチックであった。その後、空に浮ぶ雲のカットがあり、それにお甲の満足したような高笑いがかぶって、野原にしどけなく寝そべっているお甲の姿が映し出される。その右手には、しょんぼり立膝をついて坐っている又八の姿があった。内田吐夢の演出の冴えといったところであろうか。当時20過ぎの純情な青年だった私など熱くなったものである。
●上掲の画像は、武蔵と又八がお甲と娘の朱美の女二人の住む艾屋に匿われ、どうどうと母屋に住むようになると、それを迷惑どころか家の中が賑やかになってよいと喜んでいる風に見えるお甲。二人を相手に「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱美の婿になっていつまでもここにいてくれたらよいが」と、いったりして、初心(うぶ)な青年をどぎまぎするのを見てはおかしがるお甲。吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻(15P )に出てくる挿絵。挿画者矢野橋村。(吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻は※2青空文庫で読める。)
その前の1954(昭和29)年公開の東宝映画(監督:稲垣浩、タイトルは同じく「「宮本武蔵 (1954年の映画)」、主役武蔵:三船敏郎)では、彼女は、吉野太夫を演じていたが、錦之介版お甲と違って、三船版の吉野太夫役は、私の記憶に余り強くは残っていない。
木暮 は、妖艶な「ヴァンプ(vamp)女優」として有名であったが、私なども、相対的には顎のホクロが何とも艶っぽい「大人のムードを漂わせた」女優としての印象を持ている。それは、私が少年時代より好んで多く見た時代劇や活劇映画などの役柄からそう思っているところが多いようだ。
プロフィールや作品歴など(参考の※3.※4、※5等)を調べてみると、木暮実千代(本名:和田 つま)は、1918(大正7)年1月31日山口県下関で生まれ、女学生時代から「令女界」に投稿していた文学少女だったそうだ。
ある機会に、映画会社に写真を送るも採用には至らなかったが3位に入ったことがあるそうで、これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田国士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、残念ながら日本大学芸術学部に入学したという。
在学中、江ノ島のカーニバルの野外劇で「弁天さん」に扮した芝居に出演したのがきっかけで、1938(昭和13)年、在学中、にスカウトされ松竹に入社したのが木暮の映画人生の始まりだったそうで、このときのスカウトから「ワンカットだけ出演してみないか」といわれて, 看護婦の一人として出演したのが「愛染かつら」(川口松太郎の同名小説の映画化) の後編「続愛染かつら」(1939年)であったという。
前年公開の「愛染かつら」は、医師津村浩三(上原謙)と看護婦?石かつ枝(田中絹代)のメロドラマで、テレビのない戦前、銀幕で天下の紅涙を絞ったヒット作品であった。
このときの試写の席で松竹大船撮影所の幹部の目に留まり、「結婚天気図」(1939年)への出演とスターダムへの階段を登ってゆくことになる。
昭和初期に女性で大学まで入ったのだから、恵まれた家庭に育ったのだろう。木暮が松竹に入社した当時は映画全盛時代で、高峰三枝子、桑野通、水戸光子らが幹部にいたためにどうしても敵役的な役回りが多くなったようであるが、1年余りで彼女は幹部に昇進。庶民的人気というよりは、大学生などインテリ層にもてはやされていたという。妖艶、あるいはヴァンプ女優と言われた人だが、実際にはどんな役を演じても品があったのは育ちの良さがあったからかもしれない。
戦前の1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までには多くの出演作が見られる(※6参照)のに、その後しばらく空白があるのは、マスコミの仕事に従事する夫・和田日出吉の仕事の関係で夫妻とも満州に渡っていたからのようだ。
彼女の満州映画協会(満映)での出演作に李香蘭 (山口 淑子)と共演した「迎春花」(1942年)がある。
後の夫となった和田と運命の恋に落ちたのが、この『迎春花』のロケで旧満州を訪れたときのことだという。二人は義理のいとこ同士で、木暮の従姉(じゅうし。年上の、女のいとこ)のご主人が日出吉で20歳年上だったそうで、日出吉は、木暮と満州で出会ったとき、満州新聞社の社長をしていたそうで、豪邸に住んでいたという(※7参照)。
「迎春花」ほか、満映での出演作に「間諜未だ死せず」(1942年)や「開戦の前夜」(1943年)といったタイトルのものがあり、当時の時代を感じさせる。敗戦後、満州から苦労して帰国し、1946(昭和22)年に、映画界に復帰する。
青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路(スマロ)か 虹口(ホンキュ)の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ
『夜霧のブルース』 。
この曲は、島田磬也(作詞)、 大久保徳二郎(作曲)、 ディック・ミネ(唄)のトリオによる上海ものの1つであり、歌に出てくる四馬路は、現在、上海市黄浦区の人民広場の東に外灘まで続く上海の福州路(地図)で当時は租界地区(上海租界)であった。また、虹口区は上海市中心城区北部に位置し、黄浦区に隣接するこの地域は、第二次世界大戦中は日本の租界で、「小東京」と呼ばれていたところだ。
この歌は1947(昭和22)年に公開された水島道太郎主演、映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌として制作されたもので、死ぬ思いで満州から引き上げてきた木暮にとっては戦後2作目の映画である(第1作1946年作「許された一夜」で主役を演じている。)。
上海でギャングだった男が、彼を悪の道に引き戻そうとする元の仲間と戦う、といった物語。木暮は、主役である水島演じるギャングのボスの情婦役であるが、悪女ではなく、根はいい女である彼女から、駆け落ちをもちかけられた水島はボスに撃たれてしまう・・・。この映画では、「夜霧のブルース」のほかに、「長崎エレジー」「夜更けの街」「雨のオランダ坂」と計4つの挿入歌が作られたが、いずれもヒットしている。そのうち以下で「夜霧のブルース」と「夜更けの街」が聞ける。「夜更けの街」では、キャバレー・シーンで肩を顕わにしたドレスを身に着けて出ているシーンが見れるよ。この時彼女は29歳、実に美しく妖艶だ。
「夜霧のブルース」 ディック・ミネ-YouTube
夜更けの街ー伊藤久男.mpg
この映画を京都で撮影中、『醉いどれ天使』(1948年)の三船敏郎演ずるやくざの情婦にと黒澤明が木暮にしつこく出演を迫ったという。
薄情な、ヤクザの情婦・奈々江。この役をこなせるのは木暮しかいない、と踏んで世界の黒澤監督が、自宅への日参はもとより京都の撮影所までも追いかけたという。しかし、黒沢は、木暮ならヤクザの情婦役を地でこなせると思っていたことを後に「ぼくがメガネ違いをしたのは初めてですよ」と語っていたそうだが若いヤクザ三船を子供扱いにする演技などは好演だった。
ただ、木暮は、プロ意識の強い俳優と違って、「役作り、演技」などについては余り考えないタイプの女優と聞いているが、黒沢のしっこい要請を逃げ回っていたもののしぶしぶ根負けして応じたところから、本来の彼女の地のよさが出てしまったのが黒沢には気に入らなかったのだろう。
このように戦後も戦前と同じく妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中でそれは生き生きとした精彩を放ち、1949(昭和24)年の<av href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%AD%A3>今井正監督映画『青い山脈』では、
知的で清楚な女教師(原節子)と対照的な役柄、芸者梅太郎(笹井とら)に扮し、中年年増役で脇役ながら、妖艶かつ軽妙な演技で観客に強い印象を与え毎日映画コンクール助演賞を受賞した。
●以下の画像は、青い山脈 (1949)ポスター。中央の芸者姿が木暮美千代である。
「青い山脈」が7月に公開されて2ヶ月後の9月、戦後、初めて名誉ある歴史的な特急列車が登場した。国鉄の特急の運転は、戦局の悪化により1944(昭和19)年以降、中断されていたが、戦後、落ち着きを取り戻し始めた、1949年9月15日改正で、特急が1往復、復活する事になり、命名されたのが「へいわ」である。
東京駅 - 大阪駅間を9時間で結ぶ特急「へいわ」が9月15日に運転を開始するのに先立ち、同月8日に試運転が行われた。最高時速95キロ、平均時速61、9キロは戦後最高記録。
●上掲のの写真は見送りの人々に挨拶をする俳優の徳川無声(右から3人目)と女優の木暮美千代(当時31歳。右端)らである。撮影は9月8日東京駅にて。(同写真は『朝日ロニクル週刊20世紀』 1949年号28pより借用。「へいわ」は復興の役に立ってはいたものの、戦前に運行されていた超特急「つばめ」の名称復活を望む声が多かった為、翌年の元日に改称された。戦後の復興を示す貴重な写真であるので掲載した。
映画では「青い山脈」のあと、1950(昭和25) 年には大仏次郎原作同名小説を大庭秀雄監督が映画化した「帰郷」が佐分利 信との名コンビで、キネマ旬報ベストテン第2位に選ばれ、記念すべき作品となった。
また、獅子文禄の新聞連載小説『自由学校』が翌・1951年に映画化された。この映画は5月5日大映と松竹の同時公開となったが、2作品ともに興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。
「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。古いモラルや上流社会のありようを風刺したコメディーで「とんでもハップン」などの流行語を生んだ。
吉村公三郎監督の大映作品では、主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代が好演した。それに対して、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子を起用している。この頃小暮実千代33歳、最も輝いていたころであり、「成熟しきった女の豊満な肉体」、「終戦後最も目立つ女優の一人」と評されていた。
●上掲の画像が映画化された自由学校のシーン。写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役の小野文春駒子役の小暮美千代、写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役の佐分利信と駒子役の高峰美枝子である。
この後、小津安二郎監督・脚本による「お茶漬の味 」(1952年松竹)は、地方出身の素朴な夫(佐分利信)とそんな夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。
この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、夫の海外赴任を契機に互いの絆を確認しあい、和解するまでを描いたもの。最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。
その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。佐分利と木暮の名コンビによる味わい深い一篇。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞しているが木暮の演技も素晴らしかった。でも小暮の演技なまめかしいですね〜。以下はその名場面。ちょっと何とも言えないお茶漬けの味を味わってみられるとよい。
IL SAPORE DEL RISO AL TE' VERDE regia di Yasujiro Ozu (1952)>お茶漬けの味-
他に、溝口健二監督の「雪婦人絵図」(1950年)でのヒロインの雪を演じたたほか、同監督の作品「祇園囃子」(1953年)では世代も考え方も違う若き舞妓・美代栄(若尾文子)を鍛える海千山千の芸者役を演じ、市川雷蔵が平 忠盛の嫡子・清盛役で主演した「新・平家物語」では、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た気位の高い母、泰子を好演、忠盛の葬儀で焼香する清盛に向かい「あなたは、白河院の御子に間違いない・・・」と告げる。・・難しい役所である。(1955年)「赤線地帯」(1956年)は売春防止法が成立直前の状況を背景に、特殊飲食店「夢の里」で働く、様々な境遇の女たちを描いた傑作で、タイトル通り赤線の女を演じるなど幅広い役をこなしている。
●以下の画象は映画のポスター。
そのほか、新東宝映画「離婚」(1952年)では、美貌と貞淑で名高い良家の夫人が、吹雪の山小屋で夫以外の男性と一夜を過ごしたことから、窮地に立たされる…。名匠・マキノ雅弘によるメロドラマ。木暮実千代が苦悩に悶える有閑夫人をしっとりと演じており、古典の名作「源氏物語」を文豪・谷崎潤一郎監修、新藤兼人脚本により映画化した同名映画「源氏物語」(1951年角川映画)は大映創立十周年記念の文芸大作で、吉村公三郎監督がメガホンをとり花と匂う王朝時代を背景に、主役の源氏を長谷川一夫が演ずるほか華俳優陣が絢爛と織りなす大恋愛絵巻。この中で木暮実千代は藤壺に扮し脂の乗った演技で魅せる。以下でその1シーンが見れる。
幻映画館(47)「源氏物語」
また、有吉佐和子の同名小説を映画化した「三婆」(1974年)は、戦後の混乱の中、いがみ合いながらもそれぞれに変化していく3人(三益愛子、田中絹代、木暮実千代)の「婆」と周囲の人たちが巻き起こす騒動を描いた喜劇は、テレビドラマ化・舞台化も繰り返された人気作品であった。
芸者を演ずるものが多いが、そのほか母物なども演じている。しかし、男性の私の場合そのような映画はあまり見ていないので、語ることはできないが、彼女は、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、今井正、木下恵介(「海の花火」「男の意気」「間諜 未だ死せず」など)、吉村公三郎、渋谷実(「4人目の淑女」「花の素顔」「消えた死体」など)、内田吐夢、田坂具隆(「五番町夕霧楼」「湖の琴」など)などの日本映画全盛期の巨匠たちに愛された女優であり、山田洋次監督の男はつらいよシリーズの23作目「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)にも、寅さんのマドンナ入江ひとみの母役で出演していたが、この時もう彼女は61歳にもなっていたのだ。彼女の生涯にわたっての映画への出演は350本以上というが、後年はテレビドラマや舞台でも活躍していた。
また、彼女はCMに出た女優第一号であり、ジュジュ化粧品は1950(昭和25)年9月「マダムジュジュ」を発売。商品のコンセプトは、エイジングケアという概念を先取りした、「25才からのお肌にうるおいを与える奥さまのためのクリーム」であった。ジュジュ化粧品のCMでは、木暮実千代を専属モデルに起用。「25才以下の方は、お使いになってはいけません!!」という大胆なキャッチフレーズが話題を呼んだ(※8参照)。
また、1950年代の日本は、戦後の経済復興が軌道にのり、生活を豊かにしようとする余裕が生まれつつあった。そして、テレビの本放送が始まるなど、便利さや快適さへの憧れが一気に高まり、目を向けられたのが「家事労働の軽減」であった。
一般には洗濯機の時代こんな簡便な洗濯機があった。電気洗濯機は戦前からあったが5万円〜6万円もした。
●以下の画像は、朝日クロニク週刊20世紀1852年号より借用)、
三洋電機が「家電事業」に参入したのは、1953年8月に発売した噴流式電気洗濯機「SW-53」からである。
値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近くであった。しかも汚れ落ちが良くて省電力、角型でムダな設置スペースを取らないなどメリットが多く、この1号機発売と同時に誕生したのが、木暮美智子をモデルとした「サンヨー夫人」であり、新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場。宣伝キャンペーンは大成功で、爆発的な売上を記録したそうだ。
三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれたとき、洗濯機は主婦が使うものであることから、その主婦代表として3人のスター・小桜葉子(俳優上原謙夫人)、高杉早苗(歌舞伎役者市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人) の中からサンヨー夫人と命名して宣伝に使うことに決まったが、その頃すでに、木暮は「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強く出来上がっていたことが、亀山太一宣伝次長にサンヨー夫人のイメージは木暮しかいないと決断させた理由だという(※9参照)。
木暮の人柄と共に当時の家電広告は機械説明中心のものがほとんどの中、三洋電機は自ら「軟派広告」と称して女性にやわらかく話しかけるような広告としたのが成功した理由のようだ。そして、発売の翌年7月には月産1万台を突破し、一躍トップシェアに躍り出、これによって「洗濯機のサンヨー」という名が全国に広まったという。以下参考の※10には、その当時のCM写真が掲載されている。
ところで、木暮が三洋電機のイメージ・タレントの洗濯会議で3名のスターのなかから選ばれたが、他の2名の夫君は有名な俳優上原謙や歌舞伎役者市川段四郎であるのに対して、木暮の夫君は和田日出吉…と言われても、どこの何をした人と思われた人が多いかもしれないが、他の2名以上にスケールの大きな人物であったあったようだ。
どんな人物かは、以下参考の※4:「黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸」を詠まれるとよい。20歳も年上のこれだけスケールの大きな人物と結婚できるのだから、木暮もそれだけスケールの大きな女性だったと言えるだろう。
木暮は、ボランティア活動にも熱心な人だったとは聞いていたが、以下参考の※5:「女優ボランティアの草分け木暮実千代さん」によると、木暮のボランティアに関するエピソードを以下のように紹介いている。
“木暮さんは終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児伊藤幸雄さんら二人に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもおたべなさい」といって当時のお金では大枚の百円札を2枚渡し「くつはみがかなくていいのよ。体に気をつけてね」といって励ましたエピソードがある。その少年は後にアメリカに留学して大学を卒業し、一人は高校の教師、一人は医師として開業している。
群馬県にあるあの菊田一夫作によるラジオドラマの舞台になった「鐘の鳴る丘少年の家」の設立にも出資するほか、保護司として戦後の窮乏生活を送る人たちにも手をさしのべていた。このほか中国留学生を自宅に寄宿させるなど人の見えないところで奉仕活動をしていた。こうした一連のボランティア活動はどこから来たものなのか。恵まれた環境に育ち、 映画界でも下積みのないのにかかわらずこのヒューマニズムは、生来の性格があいまってのことであろう。かつて高峰三枝子さんの息子が覚醒剤容疑で検挙されたときも、彼女は保護司として息子を立ち直らせている。”・・・・と。
木暮にとって、高峰三枝子は、かっての映画界における「良きライバル」でもあった。そのようなライバルにも優しく手を差し伸べられる・・て素晴らしい人だ。
●上掲の画象は、女優の木暮美千代さんが中国残留孤児たちを東京・田園調布の自宅に招き、心づくしの日本料理でもてなした時の写真である。招待されたのは、肉親との対面を果たせずにいる男性2人と女性3人。木暮さん自身旧満州で、当時生後6か月だった長男と生き別れになりかかった経験があるのだという。写真は1981年3月12日のもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1981年10pより借用。・・・。
混乱を極めた敗戦直後の旧満州で家族と離れ離れになり中国人に育てられた日本人孤児の第1次訪日者47人が厚生省の招きで1981(昭和56)年3月2日成田着の中国民航機で36年ぶりに祖国の土を踏んだ。一行は3月16日滞在日程のすべてを終え離日した。この結果肉親や親族に再開できた人は26名、夢破れた孤児は21人だった。
上掲の写真を見ていると、木暮さん本当に品の良い優しそうな顔をしていますね。
まだボランテイアという言葉も活動も一般化していないときから、地味なヒュ−マンな活動を女優業という多忙な仕事をしながら、死去するまで続けていたことを知り、改めて感動し、是非このブログで取り上げたくなった次第である。
●冒頭の画像は、黒川鍾信著NHK出版『 木暮実千代 知られざるその素顔』。
参考:
※1:すだち72号 - 「知的感動ライブラリー」(45) 徳島大学附属図書館
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/072/72-1.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.1562吉川 英治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html#sakuhin_list_1
※3:木暮実千代 出演の映画を見ながらその半生を追う]
http://scn-net.easymyweb.jp/member/sundaikai/
※4:黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸
http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/55a9b842ffe241207e589fe68d32bf93
※5:女優ボランティアの草分け 木 暮 実 千 代 さ ん
http://www.meidai-fujisawa.com/zuihitu4.html
※6:木暮実千代 (コグレミチヨ,Michiyo Kogure,木暮實千代) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84246/
※7:木暮実千代ブログ版 by藤沢摩彌子満映との合作映画『迎春花』(2009年08月29日)
http://blogs.dion.ne.jp/fujisawam/archives/8704958.html
※8:マダムジュジュの歴史|企業情報|ジュジュ化粧品株式会社
http://www.juju.co.jp/catalog/juju/history/
※9 サンヨー夫人: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-47f4.html
※10:SANYO 洗濯機事業 --50年の歩み-- - Panasonic
http://panasonic.co.jp/sanyo/corporate/history/sw50th/history/index.html
木暮実千代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9A%AE%E5%AE%9F%E5%8D%83%E4%BB%A3
さて、今日はどちらをテーマーに書こうかと思ったのだが、宮本武蔵は余りにも歴史的に有名な人物であることから,私も、今までにこのブログで、「英治忌(宮本武蔵」の吉川英治の忌日)」、「決闘の日」、「NHKラジオで徳川夢声の『宮本武蔵』の朗読が始まった日」、「巖流・佐々木小次郎(剣術家) が 宮本武藏との巖流島での決闘で敗死」などのタイトルで、武蔵関連のことを書いてきたので、改めて宮本武蔵その人のことを書くのはまた、別の日にして、今日は、女優・木暮実千代のことについて書いてみようと思う。
宮本武蔵と木暮実千代の忌日が同じ日と言うことからある映画を思い出した。それは、吉川英治の小説『宮本武蔵』を映画化したものであるが、同氏の小説を題材にした武蔵物の映画は数多く制作されている中で、木暮実千代が良い味で出演していた作品で私の記憶に強く残っているのは、内田吐夢監督が、中村錦之助(萬屋錦之介)主演で映画化した東映映画の「宮本武蔵」であり、全5部作の大作であった。
1961(昭和36)年に公開された第1作では、新免武蔵(たけぞう)(俳優:中村錦之助)が沢庵宗彭の導きにより、姫路城天守で3年間の幽閉生活を送るまでを描いている。
ストーリー(詳しくは※1参照)
慶長5年9月、関ヶ原の合戦で西軍豊臣方は惨敗に終った。作州(美作の異称)宮本生れの郷士の伜、新免武蔵と本位田又八(俳優:木村功)は野望を抱いて関ヶ原の戦いで西軍に加わったが、傷ついて山中で暮らすもぐさ家のお甲(俳優:木暮実千代)とその養女朱実に救われた。この母娘は戦場荒しを稼業とする盗賊だった。ある日、お甲の家を野武士辻風典馬の一隊が襲った。武蔵は典馬を殴殺し、又八は手下を追いちらした。そんな二人にお甲の誘惑の手がのびた。又八は許嫁お通(入江若葉)を忘れ、お甲とともに姿を消した・・・。
同映画の武蔵も又八も心の弱さを持つ人間であった。この点はいみじくも沢庵和尚の言葉がずばりと言い当てている。
又八と別れ、国境の木戸を破って故郷の宮本村に逃げ込んだ武蔵だが役人に追われ次第に狂暴となり、山の中に隠れていた。そんな武蔵をとらえるために、お通一人を伴って,山中で,火を焚き鍋をかけて,武蔵を待つシーンがあった。そうして武蔵を捉えると約束した期限の3日目の夜「こうしてここに座ったままでいてよろしいのですか」と心配そうに尋ねるお通に対して,沢庵は、「人間の心は実は弱いものなのだ。孤独が決して本然なものではない」と言いながら,武蔵がこの温かい火の色を見て,必ずこの場所に姿を見せることを確信していたが、その通り、武蔵が現れ捉えられる。映画第1部のクライマックスの一つであった。
闘争心によって内面的な心の弱さを克服しながら生きている武蔵。暴れん坊だが、本当は寂しがり屋で、愛情に飢えた孤独な若者である。それを錦之助は実に魅力たっぷりに演じている。野性的で荒々しいが、その半面、優しさとナイーヴさも備えている錦之助の演じる武蔵は、人間的に成長し後年の宮本武蔵へと成長してゆく。そうした「剛と柔」の両面を錦之助が素晴らしい演技で見せてくれる。本当にいい役者だった。
一方の、又八は、心の弱さに負け、年上の女の色情に溺れながら、転落していく。又八には、故郷の村に年老いた母親(お杉ばあさん)と可憐な許婚(お通)が居る。それなのに、後家のお甲の誘惑に負け、自らの性欲を衝動的に満たしたがために、人生の道を踏み外してしまう。ウジウジしたヤサ男の又八を演じた木村功がまた何とも言えず、悲哀さえ感じさせる好演だった。
ストーリーの必然として又八をお甲の愛欲に溺れさせなければならなかったから、木暮実千代としては年増(この時木暮43歳)の色香を見せつけるように演じたのだろうが、お甲(木暮)が又八の負傷した太股に焼酎を吹きかけ、むしゃぶりつくようにして口で膿んだ血を吸うシーン。この部分は原作にはないのだが、映画独特の見事な描写である。色気たっぷりで欲求不満のお甲が、若い男の太股の血を吸っているうちに、発情して童貞の又八を犯していく様子がすさまじく、極めてエロチックであった。その後、空に浮ぶ雲のカットがあり、それにお甲の満足したような高笑いがかぶって、野原にしどけなく寝そべっているお甲の姿が映し出される。その右手には、しょんぼり立膝をついて坐っている又八の姿があった。内田吐夢の演出の冴えといったところであろうか。当時20過ぎの純情な青年だった私など熱くなったものである。
●上掲の画像は、武蔵と又八がお甲と娘の朱美の女二人の住む艾屋に匿われ、どうどうと母屋に住むようになると、それを迷惑どころか家の中が賑やかになってよいと喜んでいる風に見えるお甲。二人を相手に「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱美の婿になっていつまでもここにいてくれたらよいが」と、いったりして、初心(うぶ)な青年をどぎまぎするのを見てはおかしがるお甲。吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻(15P )に出てくる挿絵。挿画者矢野橋村。(吉川栄治小説『宮本武蔵』第一巻地の巻は※2青空文庫で読める。)
その前の1954(昭和29)年公開の東宝映画(監督:稲垣浩、タイトルは同じく「「宮本武蔵 (1954年の映画)」、主役武蔵:三船敏郎)では、彼女は、吉野太夫を演じていたが、錦之介版お甲と違って、三船版の吉野太夫役は、私の記憶に余り強くは残っていない。
木暮 は、妖艶な「ヴァンプ(vamp)女優」として有名であったが、私なども、相対的には顎のホクロが何とも艶っぽい「大人のムードを漂わせた」女優としての印象を持ている。それは、私が少年時代より好んで多く見た時代劇や活劇映画などの役柄からそう思っているところが多いようだ。
プロフィールや作品歴など(参考の※3.※4、※5等)を調べてみると、木暮実千代(本名:和田 つま)は、1918(大正7)年1月31日山口県下関で生まれ、女学生時代から「令女界」に投稿していた文学少女だったそうだ。
ある機会に、映画会社に写真を送るも採用には至らなかったが3位に入ったことがあるそうで、これがきっかけで上京の意志を固め、当時文壇を賑わしていた劇作家岸田国士(明治大学文芸科創設に関わる)らに傾倒し、明治大学文学部に入ろうとしたが試験に間に合わず、残念ながら日本大学芸術学部に入学したという。
在学中、江ノ島のカーニバルの野外劇で「弁天さん」に扮した芝居に出演したのがきっかけで、1938(昭和13)年、在学中、にスカウトされ松竹に入社したのが木暮の映画人生の始まりだったそうで、このときのスカウトから「ワンカットだけ出演してみないか」といわれて, 看護婦の一人として出演したのが「愛染かつら」(川口松太郎の同名小説の映画化) の後編「続愛染かつら」(1939年)であったという。
前年公開の「愛染かつら」は、医師津村浩三(上原謙)と看護婦?石かつ枝(田中絹代)のメロドラマで、テレビのない戦前、銀幕で天下の紅涙を絞ったヒット作品であった。
このときの試写の席で松竹大船撮影所の幹部の目に留まり、「結婚天気図」(1939年)への出演とスターダムへの階段を登ってゆくことになる。
昭和初期に女性で大学まで入ったのだから、恵まれた家庭に育ったのだろう。木暮が松竹に入社した当時は映画全盛時代で、高峰三枝子、桑野通、水戸光子らが幹部にいたためにどうしても敵役的な役回りが多くなったようであるが、1年余りで彼女は幹部に昇進。庶民的人気というよりは、大学生などインテリ層にもてはやされていたという。妖艶、あるいはヴァンプ女優と言われた人だが、実際にはどんな役を演じても品があったのは育ちの良さがあったからかもしれない。
戦前の1938(昭和13)年から1943(昭和18)年までには多くの出演作が見られる(※6参照)のに、その後しばらく空白があるのは、マスコミの仕事に従事する夫・和田日出吉の仕事の関係で夫妻とも満州に渡っていたからのようだ。
彼女の満州映画協会(満映)での出演作に李香蘭 (山口 淑子)と共演した「迎春花」(1942年)がある。
後の夫となった和田と運命の恋に落ちたのが、この『迎春花』のロケで旧満州を訪れたときのことだという。二人は義理のいとこ同士で、木暮の従姉(じゅうし。年上の、女のいとこ)のご主人が日出吉で20歳年上だったそうで、日出吉は、木暮と満州で出会ったとき、満州新聞社の社長をしていたそうで、豪邸に住んでいたという(※7参照)。
「迎春花」ほか、満映での出演作に「間諜未だ死せず」(1942年)や「開戦の前夜」(1943年)といったタイトルのものがあり、当時の時代を感じさせる。敗戦後、満州から苦労して帰国し、1946(昭和22)年に、映画界に復帰する。
青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路(スマロ)か 虹口(ホンキュ)の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ
『夜霧のブルース』 。
この曲は、島田磬也(作詞)、 大久保徳二郎(作曲)、 ディック・ミネ(唄)のトリオによる上海ものの1つであり、歌に出てくる四馬路は、現在、上海市黄浦区の人民広場の東に外灘まで続く上海の福州路(地図)で当時は租界地区(上海租界)であった。また、虹口区は上海市中心城区北部に位置し、黄浦区に隣接するこの地域は、第二次世界大戦中は日本の租界で、「小東京」と呼ばれていたところだ。
この歌は1947(昭和22)年に公開された水島道太郎主演、映画「地獄の顔」(松竹)の主題歌として制作されたもので、死ぬ思いで満州から引き上げてきた木暮にとっては戦後2作目の映画である(第1作1946年作「許された一夜」で主役を演じている。)。
上海でギャングだった男が、彼を悪の道に引き戻そうとする元の仲間と戦う、といった物語。木暮は、主役である水島演じるギャングのボスの情婦役であるが、悪女ではなく、根はいい女である彼女から、駆け落ちをもちかけられた水島はボスに撃たれてしまう・・・。この映画では、「夜霧のブルース」のほかに、「長崎エレジー」「夜更けの街」「雨のオランダ坂」と計4つの挿入歌が作られたが、いずれもヒットしている。そのうち以下で「夜霧のブルース」と「夜更けの街」が聞ける。「夜更けの街」では、キャバレー・シーンで肩を顕わにしたドレスを身に着けて出ているシーンが見れるよ。この時彼女は29歳、実に美しく妖艶だ。
「夜霧のブルース」 ディック・ミネ-YouTube
夜更けの街ー伊藤久男.mpg
この映画を京都で撮影中、『醉いどれ天使』(1948年)の三船敏郎演ずるやくざの情婦にと黒澤明が木暮にしつこく出演を迫ったという。
薄情な、ヤクザの情婦・奈々江。この役をこなせるのは木暮しかいない、と踏んで世界の黒澤監督が、自宅への日参はもとより京都の撮影所までも追いかけたという。しかし、黒沢は、木暮ならヤクザの情婦役を地でこなせると思っていたことを後に「ぼくがメガネ違いをしたのは初めてですよ」と語っていたそうだが若いヤクザ三船を子供扱いにする演技などは好演だった。
ただ、木暮は、プロ意識の強い俳優と違って、「役作り、演技」などについては余り考えないタイプの女優と聞いているが、黒沢のしっこい要請を逃げ回っていたもののしぶしぶ根負けして応じたところから、本来の彼女の地のよさが出てしまったのが黒沢には気に入らなかったのだろう。
このように戦後も戦前と同じく妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中でそれは生き生きとした精彩を放ち、1949(昭和24)年の<av href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%AD%A3>今井正監督映画『青い山脈』では、
知的で清楚な女教師(原節子)と対照的な役柄、芸者梅太郎(笹井とら)に扮し、中年年増役で脇役ながら、妖艶かつ軽妙な演技で観客に強い印象を与え毎日映画コンクール助演賞を受賞した。
●以下の画像は、青い山脈 (1949)ポスター。中央の芸者姿が木暮美千代である。
「青い山脈」が7月に公開されて2ヶ月後の9月、戦後、初めて名誉ある歴史的な特急列車が登場した。国鉄の特急の運転は、戦局の悪化により1944(昭和19)年以降、中断されていたが、戦後、落ち着きを取り戻し始めた、1949年9月15日改正で、特急が1往復、復活する事になり、命名されたのが「へいわ」である。
東京駅 - 大阪駅間を9時間で結ぶ特急「へいわ」が9月15日に運転を開始するのに先立ち、同月8日に試運転が行われた。最高時速95キロ、平均時速61、9キロは戦後最高記録。
●上掲のの写真は見送りの人々に挨拶をする俳優の徳川無声(右から3人目)と女優の木暮美千代(当時31歳。右端)らである。撮影は9月8日東京駅にて。(同写真は『朝日ロニクル週刊20世紀』 1949年号28pより借用。「へいわ」は復興の役に立ってはいたものの、戦前に運行されていた超特急「つばめ」の名称復活を望む声が多かった為、翌年の元日に改称された。戦後の復興を示す貴重な写真であるので掲載した。
映画では「青い山脈」のあと、1950(昭和25) 年には大仏次郎原作同名小説を大庭秀雄監督が映画化した「帰郷」が佐分利 信との名コンビで、キネマ旬報ベストテン第2位に選ばれ、記念すべき作品となった。
また、獅子文禄の新聞連載小説『自由学校』が翌・1951年に映画化された。この映画は5月5日大映と松竹の同時公開となったが、2作品ともに興行成績がよかったため、今日いわれるところの「ゴールデンウィーク」という用語が生まれた。
「自由学校」とは戦後の自由化された家庭・社会のことを指す。古いモラルや上流社会のありようを風刺したコメディーで「とんでもハップン」などの流行語を生んだ。
吉村公三郎監督の大映作品では、主人公の五百助役を一般から公募、雑誌編集者の小野文春を起用。駒子は小暮美千代が好演した。それに対して、渋谷実監督の松竹版は五百助役に佐分利信、駒子は高峰美枝子を起用している。この頃小暮実千代33歳、最も輝いていたころであり、「成熟しきった女の豊満な肉体」、「終戦後最も目立つ女優の一人」と評されていた。
●上掲の画像が映画化された自由学校のシーン。写真左が吉村公三郎監督の大映作品。主人公の五百助役の小野文春駒子役の小暮美千代、写真右は、渋谷実監督の松竹版は五百助役の佐分利信と駒子役の高峰美枝子である。
この後、小津安二郎監督・脚本による「お茶漬の味 」(1952年松竹)は、地方出身の素朴な夫(佐分利信)とそんな夫にうんざりする上流階級出身の妻妙子(木暮実千代)。
この生まれも育ちも価値観も異なる夫婦が、そのギャップに悩みつつ、夫の海外赴任を契機に互いの絆を確認しあい、和解するまでを描いたもの。最後に「夫婦とはお茶漬の味なのさ」・・・と、妙子を諭す茂吉。この気安い、体裁のない感じに、妙子は初めて夫婦というものの味をかみしめるのだった。
その翌朝妙子一人が茂吉の出発を見送った。茂吉の顔も妙子の顔も、別れの淋しさよりも何かほのぼのとした明るさに輝いているようだった。佐分利と木暮の名コンビによる味わい深い一篇。同年の毎日映画コンクールで佐分利信が男優主演賞を受賞しているが木暮の演技も素晴らしかった。でも小暮の演技なまめかしいですね〜。以下はその名場面。ちょっと何とも言えないお茶漬けの味を味わってみられるとよい。
IL SAPORE DEL RISO AL TE' VERDE regia di Yasujiro Ozu (1952)>お茶漬けの味-
他に、溝口健二監督の「雪婦人絵図」(1950年)でのヒロインの雪を演じたたほか、同監督の作品「祇園囃子」(1953年)では世代も考え方も違う若き舞妓・美代栄(若尾文子)を鍛える海千山千の芸者役を演じ、市川雷蔵が平 忠盛の嫡子・清盛役で主演した「新・平家物語」では、藤原一門と血のつながっている中御門家から、忠盛に嫁いで来た気位の高い母、泰子を好演、忠盛の葬儀で焼香する清盛に向かい「あなたは、白河院の御子に間違いない・・・」と告げる。・・難しい役所である。(1955年)「赤線地帯」(1956年)は売春防止法が成立直前の状況を背景に、特殊飲食店「夢の里」で働く、様々な境遇の女たちを描いた傑作で、タイトル通り赤線の女を演じるなど幅広い役をこなしている。
●以下の画象は映画のポスター。
そのほか、新東宝映画「離婚」(1952年)では、美貌と貞淑で名高い良家の夫人が、吹雪の山小屋で夫以外の男性と一夜を過ごしたことから、窮地に立たされる…。名匠・マキノ雅弘によるメロドラマ。木暮実千代が苦悩に悶える有閑夫人をしっとりと演じており、古典の名作「源氏物語」を文豪・谷崎潤一郎監修、新藤兼人脚本により映画化した同名映画「源氏物語」(1951年角川映画)は大映創立十周年記念の文芸大作で、吉村公三郎監督がメガホンをとり花と匂う王朝時代を背景に、主役の源氏を長谷川一夫が演ずるほか華俳優陣が絢爛と織りなす大恋愛絵巻。この中で木暮実千代は藤壺に扮し脂の乗った演技で魅せる。以下でその1シーンが見れる。
幻映画館(47)「源氏物語」
また、有吉佐和子の同名小説を映画化した「三婆」(1974年)は、戦後の混乱の中、いがみ合いながらもそれぞれに変化していく3人(三益愛子、田中絹代、木暮実千代)の「婆」と周囲の人たちが巻き起こす騒動を描いた喜劇は、テレビドラマ化・舞台化も繰り返された人気作品であった。
芸者を演ずるものが多いが、そのほか母物なども演じている。しかし、男性の私の場合そのような映画はあまり見ていないので、語ることはできないが、彼女は、黒澤明、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男、今井正、木下恵介(「海の花火」「男の意気」「間諜 未だ死せず」など)、吉村公三郎、渋谷実(「4人目の淑女」「花の素顔」「消えた死体」など)、内田吐夢、田坂具隆(「五番町夕霧楼」「湖の琴」など)などの日本映画全盛期の巨匠たちに愛された女優であり、山田洋次監督の男はつらいよシリーズの23作目「男はつらいよ 翔んでる寅次郎」(1979年)にも、寅さんのマドンナ入江ひとみの母役で出演していたが、この時もう彼女は61歳にもなっていたのだ。彼女の生涯にわたっての映画への出演は350本以上というが、後年はテレビドラマや舞台でも活躍していた。
また、彼女はCMに出た女優第一号であり、ジュジュ化粧品は1950(昭和25)年9月「マダムジュジュ」を発売。商品のコンセプトは、エイジングケアという概念を先取りした、「25才からのお肌にうるおいを与える奥さまのためのクリーム」であった。ジュジュ化粧品のCMでは、木暮実千代を専属モデルに起用。「25才以下の方は、お使いになってはいけません!!」という大胆なキャッチフレーズが話題を呼んだ(※8参照)。
また、1950年代の日本は、戦後の経済復興が軌道にのり、生活を豊かにしようとする余裕が生まれつつあった。そして、テレビの本放送が始まるなど、便利さや快適さへの憧れが一気に高まり、目を向けられたのが「家事労働の軽減」であった。
一般には洗濯機の時代こんな簡便な洗濯機があった。電気洗濯機は戦前からあったが5万円〜6万円もした。
●以下の画像は、朝日クロニク週刊20世紀1852年号より借用)、
三洋電機が「家電事業」に参入したのは、1953年8月に発売した噴流式電気洗濯機「SW-53」からである。
値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近くであった。しかも汚れ落ちが良くて省電力、角型でムダな設置スペースを取らないなどメリットが多く、この1号機発売と同時に誕生したのが、木暮美智子をモデルとした「サンヨー夫人」であり、新聞にサンヨー夫人が「みなさまにおすすめします」という形で登場。宣伝キャンペーンは大成功で、爆発的な売上を記録したそうだ。
三洋電機宣伝課では新製品の洗濯機でイメージ・タレントの選択会議がおこなわれたとき、洗濯機は主婦が使うものであることから、その主婦代表として3人のスター・小桜葉子(俳優上原謙夫人)、高杉早苗(歌舞伎役者市川段四郎夫人)、木暮実千代(和田日出吉夫人) の中からサンヨー夫人と命名して宣伝に使うことに決まったが、その頃すでに、木暮は「25才以下の方は、お使いになってはいけません」という斬新なキャッチコピーで知られた「マダムジュジュ」化粧品クリームのイメージが強く出来上がっていたことが、亀山太一宣伝次長にサンヨー夫人のイメージは木暮しかいないと決断させた理由だという(※9参照)。
木暮の人柄と共に当時の家電広告は機械説明中心のものがほとんどの中、三洋電機は自ら「軟派広告」と称して女性にやわらかく話しかけるような広告としたのが成功した理由のようだ。そして、発売の翌年7月には月産1万台を突破し、一躍トップシェアに躍り出、これによって「洗濯機のサンヨー」という名が全国に広まったという。以下参考の※10には、その当時のCM写真が掲載されている。
ところで、木暮が三洋電機のイメージ・タレントの洗濯会議で3名のスターのなかから選ばれたが、他の2名の夫君は有名な俳優上原謙や歌舞伎役者市川段四郎であるのに対して、木暮の夫君は和田日出吉…と言われても、どこの何をした人と思われた人が多いかもしれないが、他の2名以上にスケールの大きな人物であったあったようだ。
どんな人物かは、以下参考の※4:「黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸」を詠まれるとよい。20歳も年上のこれだけスケールの大きな人物と結婚できるのだから、木暮もそれだけスケールの大きな女性だったと言えるだろう。
木暮は、ボランティア活動にも熱心な人だったとは聞いていたが、以下参考の※5:「女優ボランティアの草分け木暮実千代さん」によると、木暮のボランティアに関するエピソードを以下のように紹介いている。
“木暮さんは終戦直後、有楽町のガード下で靴磨きをしていた戦災孤児伊藤幸雄さんら二人に「寒いでしょう。さあ、これでなにか温かいものでもおたべなさい」といって当時のお金では大枚の百円札を2枚渡し「くつはみがかなくていいのよ。体に気をつけてね」といって励ましたエピソードがある。その少年は後にアメリカに留学して大学を卒業し、一人は高校の教師、一人は医師として開業している。
群馬県にあるあの菊田一夫作によるラジオドラマの舞台になった「鐘の鳴る丘少年の家」の設立にも出資するほか、保護司として戦後の窮乏生活を送る人たちにも手をさしのべていた。このほか中国留学生を自宅に寄宿させるなど人の見えないところで奉仕活動をしていた。こうした一連のボランティア活動はどこから来たものなのか。恵まれた環境に育ち、 映画界でも下積みのないのにかかわらずこのヒューマニズムは、生来の性格があいまってのことであろう。かつて高峰三枝子さんの息子が覚醒剤容疑で検挙されたときも、彼女は保護司として息子を立ち直らせている。”・・・・と。
木暮にとって、高峰三枝子は、かっての映画界における「良きライバル」でもあった。そのようなライバルにも優しく手を差し伸べられる・・て素晴らしい人だ。
●上掲の画象は、女優の木暮美千代さんが中国残留孤児たちを東京・田園調布の自宅に招き、心づくしの日本料理でもてなした時の写真である。招待されたのは、肉親との対面を果たせずにいる男性2人と女性3人。木暮さん自身旧満州で、当時生後6か月だった長男と生き別れになりかかった経験があるのだという。写真は1981年3月12日のもの。画像は『朝日クロニクル週刊20世紀』1981年10pより借用。・・・。
混乱を極めた敗戦直後の旧満州で家族と離れ離れになり中国人に育てられた日本人孤児の第1次訪日者47人が厚生省の招きで1981(昭和56)年3月2日成田着の中国民航機で36年ぶりに祖国の土を踏んだ。一行は3月16日滞在日程のすべてを終え離日した。この結果肉親や親族に再開できた人は26名、夢破れた孤児は21人だった。
上掲の写真を見ていると、木暮さん本当に品の良い優しそうな顔をしていますね。
まだボランテイアという言葉も活動も一般化していないときから、地味なヒュ−マンな活動を女優業という多忙な仕事をしながら、死去するまで続けていたことを知り、改めて感動し、是非このブログで取り上げたくなった次第である。
●冒頭の画像は、黒川鍾信著NHK出版『 木暮実千代 知られざるその素顔』。
参考:
※1:すだち72号 - 「知的感動ライブラリー」(45) 徳島大学附属図書館
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/072/72-1.html
※2:青空文庫:作家別作品リスト:No.1562吉川 英治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1562.html#sakuhin_list_1
※3:木暮実千代 出演の映画を見ながらその半生を追う]
http://scn-net.easymyweb.jp/member/sundaikai/
※4:黒川鍾信著「木暮実千代 知られざるその素顔」はお勧め五重丸
http://blog.goo.ne.jp/takasin718/e/55a9b842ffe241207e589fe68d32bf93
※5:女優ボランティアの草分け 木 暮 実 千 代 さ ん
http://www.meidai-fujisawa.com/zuihitu4.html
※6:木暮実千代 (コグレミチヨ,Michiyo Kogure,木暮實千代) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/person/84246/
※7:木暮実千代ブログ版 by藤沢摩彌子満映との合作映画『迎春花』(2009年08月29日)
http://blogs.dion.ne.jp/fujisawam/archives/8704958.html
※8:マダムジュジュの歴史|企業情報|ジュジュ化粧品株式会社
http://www.juju.co.jp/catalog/juju/history/
※9 サンヨー夫人: ケペル先生のブログ
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-47f4.html
※10:SANYO 洗濯機事業 --50年の歩み-- - Panasonic
http://panasonic.co.jp/sanyo/corporate/history/sw50th/history/index.html
木暮実千代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9A%AE%E5%AE%9F%E5%8D%83%E4%BB%A3